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中東の事態は「第2の東欧革命」だ
日本時間2月25日2時AM、乏しい資料を基に書きはじめている。 リビアでは、カダフィ独裁体制と反体制運動の間の二重権力状態が、いまや公然化してきた。 それも地域的な意味でと、体制的な意味でとの両面でのことである。 地域的には、まず東部地中海岸のベンガジが反体制派の手におちた。 非暴力主義の革命運動は、さらに首都トリポリとその周辺にも及んでいる。 体制的には軍が民衆側につきつつあり、閣僚や在外の外交官の辞任が相つぎ、カダフィの権力はその一族と傭兵に支えられているといった有様だ。 カダフィの追放は、いまや時間の問題になりつつある。 問題は、どう追放するかである。 伝えられるところによると彼は妻子を亡命させ、自らは最後までリビアにとどまり、非暴力主義的な民衆反乱に傭兵という暴力をもって対抗しようとしている(無差別爆撃、銃撃など)。 彼はその最後を、人びとの生命と文化・産業の全面的な破壊にも及ぼしかねないのではないかと危惧される言動もある。 それを回避して、反体制派の権力を全国に押し及ぼしうるかどうかというところに事態は進みつつあるように見受けられる。 「アフリカの狂犬」といわれたこの男に、どう始末をつけるか、それがいま最大の問題だといわねばならない。 問題は、この1月、チュニジアに突発した。 ここでのジャスミン革命といわれた運動は、中部の町シディブジドで、大学は出たものの職がなく路上で野菜を売っていた26歳の青年モハメド君が、その行動をとがめだてされたことに抗議して焼身自殺したことをきっかけにはじまった。 この自殺事件が人口の42%が25歳以下であるという若者たちの絶望を象徴し、併せてベンアリ政権の汚職を追及して運動がうねりだしたのである。 ベンアリ大統領は、1月13日、テレビ演説で一連の妥協――食糧価格引下げ、検閲の禁止、警察の実弾使用の禁止など――を約束したが、時すでにおそく結局は亡命を余儀なくされた。 これに続いたのが北アフリカの大国、エジプトである。 30年間続いたムバラク独裁体制にたいして1月25日、カイロ中心部で約一万の市民が民主化や賃上げを求めてデモに及んだ。 1月28日は「怒りの金曜日」と称して反政権派のデモが市中心部に行進、2月1日にはタハリール広場で「100万人デモ」が呼びかけられ、革命運動はエジプト各地に及んだ。 途中、ムバラク支持派がラクダなどに乗ってタハリール広場に突入、大規模衝突を発生するというエピソードをはさんで、体制・反体制のかけひきが続いたが、結局エジプトでも軍が中立から反体制支持に転じ、軍幹部がムバラクに「自発的に辞めるか、追放されるか」を選ぶよう迫って、ムバラクは荷物をまとめ家族といっしょに軍が用意したヘリに乗ることで、いちおうの幕引きが行われたという。 こうした動きは、イエメン、アルジェリア、バーレーン、シリア、サウジアラビアなどにも及びつつある。 これらの国々では、長期の独裁政権のもと、高い失業率や大統領一派の腐敗、格差の拡大、昨年からの食糧価格の高騰などが生活を直撃、ひとびとは共通の環境のもとで苦しむところとなっていた。 しかも、エジプトとサウジという大国は、アメリカ=イスラエル枢軸の中近東における政治的橋頭堡の役割をはたしていた。 その点でかつての東欧革命とベルリンの壁の崩壊(1989)がソ連にとってもった意味と似ている世界史的大事件なのだ。 この民主主義革命の波は中国にさえ波及しかねない。 基本的人権と民主主義の立場にたつ私たちが注目せざるをえぬゆえんである。 2011・1・27 津田 道夫 掲載誌 「月刊・人権と教育」445号 2011年3月20日発刊 #
by tomoni_kk
| 2011-03-21 21:00
| 政治
実現する会40周年、私たちはどう考え行動してきたか・2
大西氏による告訴・告発と、 それに連帯、法律を民衆のものにする運動 大西氏と私たちによる再三の抗議・説得にもかかわらず、浦高当局は赤人君の入学不当拒否について再判定会議も開かず、県教育局もこの行政違憲について浦高当局を指導することもしませんでした。 つまり、赤人君への不法な差別は継続していたわけです。 他方、事柄を理解した人びとにより、運動は実現する会の枠をこえて拡がってきて、梅根悟氏の適切な表現を借りれば、赤人君入学不当拒否事件は、いまや文字通り大西問題となってきていたのです。 第2回総会と、大西告訴・告発 そうしたなか創立総会から、ほぼ1年後の72年9月30日、実現する会第2回総会が開かれました。 その席上、大西氏は、現行選抜制や現行内申制を前提としてさえ、不合格にするのはおかしいし、この件については、たんに不当とか不正とかをこえて、刑法上の犯罪であるという見方を開陳、しかも、その犯罪が問題にされることもなく継続されていたのを理由に、当局(当局者連中)を、近々刑法25章「涜職ノ罪」のなかの公務員職権乱用罪で告訴するつもりであると表明したのです。 もちろん、損害賠償請求を中身とする民事訴訟・行政訴訟の権利を放棄するつもりはないが、この度は、火つけ、泥棒のたぐいと同様の犯罪として訴えたいと表明したのでした。 火つけ、泥棒については世の常識は、これは犯罪であると直ちに反応しうるのに、不当に障害者差別をした入試判定ついては、何も犯罪とまではいえないのではないかという風潮が一般的ななかにあって、いやそれ以上に悪質な犯罪事実であり、それを告訴するのは当然であるという一石を投じようとしたのだと思われます。 ここで一般人が公訴を請求する際の告訴と告発について説明しておきましょう。 告訴は、たとえば行政違憲により犯罪事実が明らかになったとき、被害者(ないしその親権者)が検察に対して公訴を請求するものであり、告発はそこに犯罪事実が認められたとき、第三者が公訴を請求することができるという性質のものです。 そして大西氏は、73年3月15日、71年春に起き、その後も継続していた大西君浦高入学不当拒否事件を刑法上の犯罪事実として浦和地方検察庁に告訴し、併せて71年春浦高で行われた不正(情実)入学許可の事実を指摘して、これを告発したのでした。 ここでは事柄を簡略化して前者についてのみ問題にしますが、ではその犯罪はどのような性質のものであったか。 刑法25章では「涜職ノ罪」が規定されておりますが、それは「公務員職権濫用」罪(刑法193条)と収賄・受託収賄罪(同197条)とから主になっており、大西氏が浦高当局・埼玉県教育局当事者を告訴したのは、いうまでもなく前者、公務員職権濫用罪についてでした。 前記実現する会第2回総会では、大西氏の意向表明を満場一致で支持するのと併せて、告訴がなされた直後、73年4月14日、総括集会「大西告訴とこれからの運動」(60名参加)を開き、大西告訴にたいする支持決議を満場一致で採択、その決議文は趣意書(一日も早く犯人らが処罰されることを求める内容)といっしょに浦和地検に提出されたのです。 それ以後、浦和地検に対する起訴要望署名活動も開始、8月27日、実現する会代表が浦和地検を訪れ、起訴要望署名の第一回集計分(約千名)を手渡したのでした(金吉次席検事)。 注目されるのは実現する会とは別に、「練馬障害児を持つ親の会」が大西告訴・告発に同調、同犯罪事実を浦和地検に告発したこと、浦和市教組、日本キリスト教主義学校組合連合関東ブロック教研集会も大西告訴を支持する決議をあげたことです。 さらに特筆さるべきは、浦高生有志が別に大西告訴を支持し、独自に起訴要望の署名活動にはいったこともあげられます(浦和高校社会科学研究会)。 実現する会としては73年7月21日、「法律をわたしたちのものに―大西告訴・告発をめぐって」(81名)、実現する会第3回総会(73年10月13日)を開き、同時に公訴の提起がおくれていることに再三にわたって抗議、みんなの間に法律知識を培うのといっしょに、法感情を陶冶していくようおおいにつとめた次第です。 不起訴決定とその後 浦和地検は、結論をおくれにおくらせていたのですが、74年1月7日、大西告訴・告発を不起訴とする旨、大西父子に告げました(翌日の各紙に記事掲載)。 そこでは埼玉県教委・教育局については「嫌疑なし」ということでしたが、浦高当局(柳瀬忠、小関一郎、高島朗)については「嫌疑不十分」ということでした。 いかな法律感情の欠落した浦和地検当局も「嫌疑なし」とはいいきれなかったのでしょう。 大西氏の質問にたいして担当検察官は、白ではないが黒でもない、いわば灰色である、と述べたといいます。 実現する会代表にたいしては、まだ民事賠償請求の道があると、しゃあしゃあと述べたことでした。 大西君入学不当拒否から3年近く閲していたというのにです。 このあとは事実経過のみ述べましょう。 大西氏は地検のこの不当な決定をうけて、74年1月11日、浦和地方裁判所にたいし、同一事案につき「準起訴手続」をとりました。 しかし、74年2月28日、浦和地裁は大西氏のこの「不審判請求」を棄却。 大西氏は、ただちに東京高裁に「抗告」を申し立て(3月5日)、しかし、東京高裁もこれを棄却してしまったのです。 さらに大西氏は最高裁に特別抗告をしましたが(74年3月27日)、ここでも棄却されてしまいました。 実現する会は、74年1月26日、4月20日と、総括集会をもちましたが、各級裁判官は、ほとんど証拠調べも行わなかった様子がうかがえます。 この間、74年1月8日、浦和地検の結論が出た翌日、浦高社会科学研究会は「大西問題、不起訴処分糾弾」という掲示を、校門前に出したのでした(月刊『人権と教育』22号一面写真参照)。 しかし、司直の当局に訴えたこの一連の動きは、最高裁の棄却決定により、「過渡的結着」(大西氏のことば)をみたといわざるをえません。 では、大西問題をめぐる運動は、何の成果もえられなかったということでしょうか。 赤人くん入学不当拒否の撤回はなされませんでしたが(もっとも三年もたって、浦高入学など赤人君には考えられもしなかったと思われますが)、私たちの間にさえあった憲法・法律知識にたいする無知をただし、市民運動のなかで法律を武器にたたかって行く意味が多くの会員の間で共有されるようになった点では、大きな意味をもったといえると、いまふり返ることができます。 現に前記72年2月5日の「大討論集会」では、浦和市の一教師が「私は教師になって25年になる。 ところでいまは受験期だが、校長が学校教育法施行規則26条のことや、障害者にたいする特別の配慮をするのを聞くのは初めてだ。ここに私たちの運動の波紋の一つを見ることができると思う」と発言していたなど、それを端的に示していたといえるでしょう。 権利実現の一つのたたかい―― 久喜の場合 法律闘争をふくむ権利のためのたたかいは、つぎに学齢にありながら未就学のまま放置されていた障害児(とくに知的障害児)に教育を受ける権利を回復させる久喜市の運動(74~75)に、一つはつながって行きました。 私が居住する久喜市内の小学校にはそれまで合わせて三つの特殊学級がありましたが、しかし、このどれも普通学級について行けないと役所側が「判別」した子(学力遅進児ないし、軽度の知的障害児)の「おちこぼれ」の場であって、いわゆる重度の、とくに知的障害児は学齢にたっしても、学校教育法23条の「就学義務の猶予免除」規定が不法に悪適用されて、教育、学校の場から全く締め出されていた実情にあったのです。 なかには、それを習慣として受け入れてしまっていた親御さんもあったかと思われます。 しかし、保護者が、その保護する子女の「教育を受ける権利」を代行しなければならないことを考えれば、行政によるこの「悪適用」は、やはり公務員職権濫用に他なりませんでした。 ここにおいて、私たちは、久喜市の2、3の親御さんと相談、「久喜市障害者問題を見まもる市民の会」をつくり、実現する会としてもこれに協力、市民の啓発と同時に、行政との話し合いもかさね、翌75年には、久喜市立本町小学校に重度の知的障害の子どももふくめて「ひまわり学級」と名を冠した障害児学級をつくらせることに成功したのです。 こうして久喜市の運動の結果、同市では養護学校の義務化による障害児全入制度の定着(79年)の前に、学籍のない障害児は基本的にいない状態をつくりだすことができました。 それも例の学校教育法23条の悪適用による障害児排除が、憲法26条「教育を受ける権利」、教育基本法3条「教育の機会均等」などを踏みにじった、公務員職権濫用に他ならぬことに気づきえた2、3の親のかたたちが、わが子の権利代行者として登場し、運動を展開したことによるといえます。 これは一例にすぎませんが、私たちはこの種の権利回復の運動へと連動して行ったということです。 また、72年の9月28日、埼玉県教育局は、県下の中学校長にたいして、障害生徒の評価についてはとくに注意するよう指示するということがありました。 この日付は実現する会第2回総会の前々日にあたっていて、私たちの総会を意識していたのではないか、という声も会員の間にありました。 さらに73年9月23日には、県立高校入学者選抜実施要項から、これまで入っていた障害者条項「入試選抜にあたっては心身に異状があり、就学に耐えられないと認める者は入学許可候補者としない」を削除することもやられたのです。 2011・1・27 津田 道夫 掲載誌 「月刊・人権と教育」445号 2011年3月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 445号 目次 ・教委の行政慣習化、権利主張の問題か -- 車いすの佳典くん問題、その経過(埼玉県春日部市)ほか 山田英造 ・武なりのペースで成長させてやりたい -- 1年間、親の就学義務を猶予へ 浅野 肇 ・高齢者施設(認知症)レポート -- 何をおっしゃいますか 佐藤与志子 ・学校現場から -- 個人用生活カードで落ちついた生活に 遠藤行博 ・学校現場から -- 本来の席にいてほしくて -- 集団が苦手な子、理科授業での試み 高坂 徹 ・「海ゆかば」は鎮魂歌か 4 -- 丸木美術館と「海ゆかば」 吉川 守 ・自然を観る -- マツタケはどこへ その2 平林 浩 ・みちのく通信 -- 山形に弾道下の村があった -- 子どもたちに伝える童話を 加藤民子 ・声、こえ、コエ ・自治体漂流 -- 自虐趣味の国民に問う 布施哲也 ・世界史ウォッチ -- 中東の事態は「第2の東欧革命」だ 津田道夫 ・虫めがね -- 天然 最首 悟 ・本の紹介 -- 巌浩『歌文集 浪々』を読む 石川愛子 ・不戦・非武装憲法を世界へ -- 沖縄のたたかい、嘉手納基地爆音訴訟 宮永 潔 ・実現する会40周年、私たちはどう考え行動してきたか 2 --大西氏による告訴・告発とそれに連帯、法律を民衆のものにする運動 津田道夫 ・編集後記 -------------------------------------- #
by tomoni_kk
| 2011-03-20 23:15
| 人権
見よ君を屠る日は来ぬ……
―― 内田弘『啄木と秋瑾』を元日に読了す 津田 道夫 直接お目にかかったことはないのだが、経済学者としてその名を知っていた内田弘の啄木論を読んで(10年12月29、30、31日)、正直驚いてしまった。 専門外の細かい研究をしていた事実に驚いたのではない。 この三八〇頁の大冊により啄木歌に対する見方を全く変革させられたという意味での驚きである。 内田は、啄木の「短歌爆発」(一九〇八)をバックアップしたものに「秋瑾衝撃」があったという。 否、これを視野におかぬでは、啄木歌を歴史的・思想的に受け止めることさえできないというのだ。 どういうことか。 秋瑾(一八七五~一九〇七)とは、まず女性解放を目ざして、排満興漢の革命運動にとび込んだ清朝末期の中国人革命家であった。 彼女は、一九〇四年から〇六年まで何回か日本留学を試み、同志をつのっていたが、〇五年十一月の日本文部省「清国人留学生取締規則」に抗議、約二千人の日本留学生といっしょに帰国、革命党と連絡し、おのれの故郷である浙江省紹興で起義(武装蜂起)を準備中、仲間の裏切りで逮捕され(〇七年七月十三日)結局、全く口を割らぬまま、七月十五日、屠刀により斬首刑に処せられた。 秋瑾は、口を割らぬまま「秋風秋雨愁殺人」(秋風秋雨人を愁殺す)の言葉だけを残した。 当時、啄木は、秋瑾を直接知ってはいない。しかし、隣国清国の革命党の事件(因みに、秋瑾らの後を追った辛亥革命が起るのは一九一一年)であり、しかも、女性の斬首刑ということで、日本の知識分子には大きな衝撃が走った。 その一人に感受性豊かな啄木がいたのである。そして、この事件が啄木にとって「秋瑾衝撃」となり、翌〇八年の「短歌爆発」にも結びつく。 〇八年には併せて神田・錦輝館で、世にいう「赤旗事件」(荒畑、大杉、堺、山川均ら逮捕)が起り、啄木は、この二つを重ねて、 見よ君を屠る日は来ぬヒマラヤの 第一峰に赤き旗立つ と歌った。 啄木にとって短歌は思想を確認する手段であった。 いま「一握の砂」から数首を引いてみる。 東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる 頬(ほ)につたふ なみだのごはず 一握の砂を示しし人を忘れず 大海にむかひて一人 七八日(ななやうか) 泣きなんとすと家を出でにき いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに ひと夜さに嵐来りて築きたる この砂山は 何の墓ぞも 「東海の小島」は、中国からみて日本以外にない。 第一首は、秋瑾の同志、陳天華が、「清国人留学生取締規則」に抗議して、東京大森海岸で踏海自殺した事蹟にも因む。 なお、啄木歌は一つ一つをバラバラに縦読みにしただけでは、その意味内容をとり損なうおそれなしとしない。 縦読みして、これを併せ横にならべて、詩として読む視点を内田は提示しているが、これも私にとって啓示であった。 読者の皆さんにおすすめしたい一冊として若干を述べた。 終りに誤植が多いのは何とかならぬものかと思う。 (社会評論社刊、11年1月1日) 掲載誌 「月刊・人権と教育」444号 2011年2月20日発刊 #
by tomoni_kk
| 2011-02-07 21:17
実現する会40周年、私たちはどう考え行動してきたか・1
大西赤人君浦高入学不当拒否を撤回させる運動 今年2011年は実現する会運動の40周年にあたります(創立総会71・10・16)。 勿論何々の何十周年というような年代の区切り方そのものに意味がある訳ではありません。 しかし、私たちが何をきっかけに、どう考え行動してきたかを反省してみる一つのよすがにはなろうかと存じます。 つまり実現する会運動の原初の精神を批判的に振り返り、それを皆さんと共有するきっかけにはなるだろうということです。 実現する会は、当初「大西問題を契機にして障害者の教育権を実現する会」という会名で運動をはじめました。 つまり、いまの会名の上に「大西問題を契機として」という形容句がついていたのです。 どういうことか。 大西巨人氏の問題提起 1971年3月、浦和市(当時)の木崎中を卒業予定の一人の少年が、県立浦和高校を受験しました。それは大西赤人君といい、血友病性の身体障害者でした。 当時埼玉県の県立高校の入試選抜では、試験当日の成績と、中学校から送付されてくる内申書の評点を五分五分に評価して合否を判定する慣行になっていました。 ところが、身体障害のある赤人君の場合、体育と併せて教室移動を必要とする教科には参加させられず、自分の教室で自習しているという有様だったのです。 これ自体、今ではちょっと考えられない状態ではないでしょうか。 しかも当時埼玉県では、10段階評価(相対評価)という方式で各教科の成績が評価され、赤人君の場合、参加できなかった教科については1とされ、これが内申書にそのまま書き込まれてしまっていたのです。 そこで、学科試験では「優に合格圏内にあった」と浦高当局が言明していたにも拘わらず、内申書の評点が足を引っぱって赤人君は不合格となってしまった訳です。 しかもです。 試験前の1月26日、父君である大西氏が、浦高の柳瀬忠校長と面談のうえ、「赤人君の修学実情に由来する内心の額面上の成績に対しては、それ相当の考慮をもって実質的に評価することが可能である」との言質をとっていたのです。 しかるに、浦高当局は、この言質を裏切り、学科試験の成績と内申書の評点を――障害に配慮することなく――機械的に五分五分に評価して、不合格にしてしまった訳で、これが障害者差別、赤人君の就学権の侵犯であるのは明らかでした。 実現する会の結成へ ここにきて大西氏は、浦高当局ないし埼玉県教育局にたいし、不合格の不当なゆえんを説いて再検討を要請したのでしたが、当局者等は、いちど決定したことを変更しようとはしませんでした。 そこで氏は朝日新聞3月30日の紙上に「障害者にも学ぶ権利がある」を書いて、この入学拒否が、憲法26条「教育を受ける権利」ならびに教育基本法第3条「教育の機会均等」条項への端的な侵犯であることを立証、問題を社会化するきっかけをつくったのです。 この大西氏の問題提起は、大きな反響を呼び、大西問題の正当な解決のため運動を起そうとする人びと(さしあたり浦和市の小・中学校教師、高校教師、一般市民など)が現われてきました。 その人たちは、自分の属する教員組合や市民団体の内部で、この問題を訴えるなどの活動をし、併せて互いに連絡をとりあい、大西問題にとり組む独自の市民運動をつくる準備を始めたのです。 7月28日、「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」準備事務局を発足させ、「呼びかけ文」を作成し、8月9月と会員をつのり、71年10月16日、実現する会は結成総会を迎えました。 結成総会で確認された当面の運動目標は次の通りです。 (1)文部省・県教委・浦和市教委に対し、赤人君の浦高入学を保障するための行政指導を行なわせる。 (2)木崎中および大原中校長に、正当な内申書の再提出を要求する(赤人君は1、2年のときは大原中に、3年のとき木崎中に在籍) (3)浦高校長に対し、速やかに入学候補者判定会議を開いて赤人君の入学を決定するよう要求する。 (4)県教委に対し、赤人君の浦高入学後の物心両名の保障を要求する。 いまふり返ってみて運動として、(2)は、この段階では不要であり、(4)は正当な入学措置を克ちとってから考えればいいことで、当面の運動目標としては不要だったのではないかとも思われます。 当面の目標は、ごく限定されたものにした方が、要求がしぼられてよかったと反省されるからです。 「答えられないという答えもある」 その運動目標をうけて、まず県教委に矛先を向け、11月13日、12月18日と、県教委教育局(指導課、宮下辰夫課長)との大衆交渉を、私たちは持ちました(80名参加)。 そして、第1回交渉では、赤人君の場合、中学における評価、浦高における選抜にその配慮がなされていたかどうか調査する“と、しぶしぶ約束させることが出来ました。 第2回交渉では、宮下課長が、冒頭〝調査の結果、内申書、入試判定とも適切であった〟と言い放ったのです。 そして、集まった人びとに調査方法や適切であったとする根拠などについて追及されると、宮下は「答えられぬという答えもある」と居直る始末でした。 私は、宮下のこの言明がいまも耳朶(じだ)に残っております。 こうした不誠意極まりない対応に、参集した人びとの憤激は頂点に達し、宮下は、再度の調査を約束せざるをえませんでした。 私たちの再度の追及に対して、教育局は更に次回お交渉を約束したのですが、ヌラリクラリとそれを引きのばし、翌72年1月29日に至って、大部淳夫事務局長の仕度に、中学における評価および浦高での判定は、「適切なものと認める」という一片の手紙が郵送されてきたのです。 私たちは、さらに教育局、浦高当局に対する抗議と追及を重ねましたが、その間、事柄を大衆化するため総括集会やシンポジウムも重ね、運動の機関紙として『人権と教育』の創刊にも至りました。 この文章では詳しい経過は省略せざるをえませんが、この間、浦和市教組や日本キリスト教主義学校組合連合などなどが実現する会の趣旨を支持してくれ、運動の大衆的拡がりには、かなりなものがあったといえましょう。 とくに、大西問題を重視した浦高の教師有志が「浦高大西問題懇談会」をつくって内部から問題をとりあげてくれた意味は浦高の教師集団全体を動かすには至らなかったものの、特筆しておきたいと思います。 一連の誤解にたいして 私たち実現する会の運動は、決して赤人君だけの支援運動にとどまるものではありませんでした。 それは、いまくだくだしい説明はしませんが、当初の会名が、「大西問題を契機として障害者の教育権を実現する会」を称していたのにも明かでしょう。 しかし、どんな市民運動にも何がしかの誤解を伴なうものです。 私たちもその運命を逃れることは出きませんでした。その極端なのは次のようなものです。 私たちは、大西問題を大衆化し、併せて障害者の教育状況全般について認識を深めるため、埼玉県当局、浦高当局の不実が明かになりつつあった72年2月5日、「障害者の教育権を実現する大討論集会」会内外に呼びかけて開きました(百余名参加)。 その際、脳性マヒの後遺症で肢体不自由の一人の障害者が、仲間数名といっしょに参加したのですが、この人たちは件の障害者の名儀にあるチラシを、参加者全員に配布したのです。 その一節から引用してみましょう。 「大西問題は、障害者教育の問題からちょっとずれていないかと思います。私の障害者の経験からいうと、赤人君の場合は、エリートのため、こういう問題が起って来たのだと思います。 赤人君は何で浦高に入れるか、入れないかで問題にしなければいけないのか解らない。 大部分の障害者はどうかというと、小学校にも入れない状況があります。 ……はたして、他の障害者は家の中で教育を受けられない現況にあることを語らないで、赤人君の問題だけで終る危険性があるのではないかと思います」。 これほど露骨でなくとも、似たような内容の疑問は、善意で意見を述べてくださるかたのなかにもかなり沢山ありました。 それと、いまでは考えられもしないことですが、当時、知的障害児をはじめ多くの障害児が、その父母が半強制的に「就学義務免除」願いを提出させられて、どこにも学籍を与えられない状況にあったことは確かでした。 だが、いまは右のチラシからの引用に戻りましょう。 私たちは、こういういい分にたいして逆に問い返したいと考えました。なぜ、赤人君を「エリート」に仕立てあげて差別し、はじきだすのかと。 そして、このチラシでは、私たちの会――その正式名称を虚心に読んでいただければ、その目的・意図について全く誤解を容れる余地のないはずの――を、「赤人君の会」という形に切りちぢめ、ねじまげていいあらわしたうえで、「赤人君の問題」と「小学校へも入れない」人の問題を機械的に対立させ、私たちが「問題をでまかしてきている」ときめつけているのです。 まして、赤人君は、「エリート」であって、「足が悪いだけ」などということを、同じ障害者――しかも具体的に権利を侵害されている――にたいしていうのは、まことに言語道断な遣り口だったといわざるをえません。 これは、私が後に久喜市未就学児解消問題[74~75]のなか直面させられた、〝うちは軽度なのに、学級をつくるため、より重いこといっしょのクラスに通わせているんだ〟といい放ったある父親の放言と、その質において全く同じではないかと、いまにおき振り返っている次第です。 11・1・19 津田 道夫 掲載誌 「月刊・人権と教育」444号 2011年2月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 444号 目次 ・実現する会40周年、私たちはどう考え行動してきたか・1 大西赤人君浦高入学不当拒否を撤回させる運動 津田道夫 ・虫めがね -- 第一級のオペラ作曲家ヴィヴァルディ 銀林 浩 ・学校現場から 壁際の少女 高坂 徹 ・インクルージョンフォーラム ルポ 障害児の高校就学は権利だ 佐久間敏幸 ・父として母として 同級生と「おはよう」 水野正人 ・「できないことは悪いことじゃあないでしょ」 1月から普通学級で全面的に過ごすことに 金城照美 ・自然を観る・66 -- マツタケどこへ 平林 浩 ・冤罪追跡レポート 裁判官の誤審が招いた冤罪布川事件 その1 竹澤節子 ・声、こえ、コエ ・自治体漂流 -- ポピュリズムを友とする 布施哲也 ・発言あり(投稿) 元特攻隊員からの手紙 ・池田早苗氏(当時12歳)の証言、ナガサキ 「姉、妹、弟の5人つぎつぎ亡くなる 藤田勝久 ・学校現場から 子どもの力を信じると道が開ける 遠藤行博 ・力は平等に評価して 運動会で、腹が立ってどなり込んだ 浅輪田津子 ・エッセイ 見よ君を屠る日は来ぬーー内田弘『啄木と秋瑾』を元日に読了すーー 津田道夫 ・各地の動き さいたま市 ノーマライゼーション条例(仮称)最終報告答申される 石川愛子 ・「さいたま市障害者も健常者もともに地域で暮らせるノーマライゼーション条例(仮称)」 についての要望 ・不戦・非武装憲法を世界へ 71 沖縄普天間基地の固定化を許してはならない 宮永 潔 ・「会」創立40周年を迎え、あらためて運動の原点に立ちかえり、 障害児の「教育への権利」の豊かな実現を! 山田英造 ・編集後記 -------------------------------------- #
by tomoni_kk
| 2011-02-06 11:47
| 人権
地域校就学は「許可」されるものか 「権利行使」か ―― 27年目の反省
『人権と教育』編集者として、あれはやはり書いておくべきだったように、いま反省している。 実は、与野市(現、さいたま市)在住の視覚障害児、蓮原妙子さんが、1984年4月からの地域の普通小への就学をかちとったのであったが、それが決まった83年12月、読売新聞に「妙子ちゃんうれしいね、全盲3人目、普通学級へ入学許可」という記事が載った。 妙子さんの就学闘争については、実現する会も勿論全面的に支援して、親御さんともども運動を繰りひろげた。 一人でも味方が欲しい時期だった。 右の読売記事を書いた記者も、この妙子さん学区小就学運動にずっと厚意的な立場をとってくれていた。 そこが右の記事となった次第である。 だが、この記事の見出しに、私(ないし私たち)は大いにひっかかったのである。 とくに「普通学級へ入学許可」とは、いったい何だろう、それが私たちの共通の戸惑いだった。 「普通学級への入学をかちとる」とでもしてくれたらよかったのに「入学許可」とは何だろう。 義務教育段階において学齢に達した子どもは入学を許可されるのだろうか。 地域校就学は当然の権利であり、当然の権利としてかちとったのであり、決して「許可」されるといった性質のものではない。そこに私たちの戸惑いの問題もあった。 私たちは相談した。 どうしよう? 反論を投書するか、あるいは『人権と教育』の紙面で問題にするか。 しかし、読売の記者は、妙子さん就学運動に終始厚意的に接してくれていた。 そこで、ここは一つそっとしておいて、記者自身が、その後もふくめて運動を観察するなかで、この「許可」という考えの不適切なことに気づいてくれるのに待ちたいと、そう相談したのであった。 ところが、本年(2010年)4月4日号の同じ読売新聞、日時計欄に、「26年ぶりの対面」という記事が載せられ、それはこう書きだされていた。 「〈妙子ちゃんうれしいね、全盲3人目、普通学級へ入学許可〉記者1年目の1983年12月、翌春から小学校に進む少女の話を埼玉版に書いた。 あどけない笑顔と、懸命にタイプライターを打ち、ピアノを弾く幼い姿が強く印象に残った」と。 この少女が妙子さんであるのは申すまでもない。 そして蓮原母子の現在が――妙子さんが視覚障害者のカウンセラーを目ざしていることもふくめて――、これも厚意的に紹介されているのだ。 しかし、厚意的とは別に、依然「普通学級へ入学許可」という表現は生きている。 件の記者が厚意的であるのに、この間違った考えは改められていないな、と感じざるをえなかった。 そこで、なぜこの一語「入学許可」が間違った、というより、不当な表現であるのかを改めて考えてみたい。 就学は義務か権利か 義務教育諸学校(小学校・中学校・特別支援学校)への就学は、学齢にある子どもにとって、ゆるがせにできない権利に他ならない。 それは憲法26条の条文を改めて持ちだすまでもないだろう。 権利であるからには、義務とちがって、権利行使主体にとって選択的でなければならない。 今日のように、多くの地方で卒業式や入学式に「君が代」斉唱が強制されているような学校を拒否する権利だってあるはずだ。 同様に、障害児にとって、どんな種類の障害があろうと、障害の程度がどのくらいであろうと、学区の普通学級を選ぶか、特別支援学校なり学級なりを選ぶかは、その選択をふくめて権利にほかならない。 そこで地域の普通学級就学ということも、権利行使主体(子ども本人)の選択によるのであり、決してどこかの行政機関に「許可」される性質のものではないのだ。 義務教育――戦前と戦後 ところでひと言で義務教育といわれるところは、戦前と戦後では、その意味内容が根本的にちがっている。 戦前は天皇制国家が教育の主体であり、国民一人一人は、臣民として教育を受ける義務を負い、「一旦緩急アレハ(ば)義勇公ニ奉シ(じ)、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘ(べ)シ」(教育勅語)という要求を実践するような人間に自らを鍛錬しなければならなかった。 これに対して戦後は、一人一人の子どもが教育作用の主体となった。 教育を受けることが基本的人権の一つとして闡明(せんめい)させられたのである。 では、いま義務教育といわれる場合の「義務」とは、誰の誰に対する義務か。 この問題では二つの柱が考えられる。 一つは、親がその保護する子女を就学させる義務であり、もう一つは、ある地域に居住する子女を収容するにたる学校(教員その他の教育資源をふくむ)を設置する義務ということである。 これを要するに、子どもに対する親の「就学させる義務」と、社会公共が負う「学校設置義務」といっていい。 親は、その保護する子どもを「就学させる義務」を負うのであり、それを別の面からいえば、親は子どもが教育を受けるに当り、その権利行使代行者としての自覚をもたなければならないということにもなる。 障害児の場合、学区小の普通学級にするか、あるいは特別支援学校・学級にするかは、本来、子ども本人の選択にかかる問題である。 しかし、学齢に達したばかりの子どもに、どこを選択するかの見解を、にわかに問うわけにはいかない。 そこで、「親(本来的には本人)の学校選択権」という憲法・法律解釈も可能となる。 私たちが、この「選択権」を就学闘争と、就学してからの学習保障のための武器としてきたのはいうまでもない。 すでに世界人権宣言(48)は、「親は、その子に与えられる教育の種類を選択する優先的権利を有する」(26条3項)といっていた。 子どもの権利条約(89)では、国内法に優位する国際条約としてこの思想が、国際人権規範のうえで宣明にされているのである。 「普通学級への入学許可」でも「入学をかちとる」でも結果的には同じではないかとはいう勿れ。 ちょっとの違い、それが困るのだ。そこに重大な思想問題が伏在するが故にである。 「就学猶予」か「就学義務猶予」か これは別の日刊新聞の記事でこの春みたのであるが、最近知的障害児の場合、一年間就学を猶予してもらって、心身の発達を按配してから実際に就学させようという親御さんが増えているということが報じられていた。 この件では、今実現する会事務局にも二件相談が寄せられている。 しかし、「就学猶予」といういい方は困る。権利に猶予も免除もありはしないからである。 現学校教育法18条は、「保護者が就学されなければならない子(……中略……)で、病弱、発育不全その他やむを得ない事由のため、就学困難と認められるものの保護者に対しては、市町村の教育委員会は、文部科学大臣の定めるところにより、同条第1項又は第2項の義務を猶予又は免除することができる」と言っているのである。 つまり心身の状況を勘案して、「就学」を「猶予」させるのは、親であり、親の「就学させる義務」が猶予されるということに他ならない。 「就学猶予」ということは、権利の思想の観点からいって正しくない。 「就学義務猶予」と書かれるべきである。 「親の就学させる義務」が一年程猶予されるということなのだからである。 「入学許可」「就学猶予」などとかいてしまう記者は、障害者教育などについて考えている良心的な人びとなのであろう。 然るが故に、あえて一言させていただくのと併せて、障害児の教育を受ける権利、とくにも「親(本来的には本人)の学校選択権」思想について一言させていただいた次第である。 10・10・19 PQR 掲載誌 「月刊・人権と教育」442号 2010年11月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 442号 目次 ・地域校就学は「許可」されるものか 「権利行使」か 津田道夫 ・学校現場からのリポート のりお君が、困難さをみずから表現 一歩一歩 確かな歩み 遠藤行博 ・ハローハンディキャップ・タイム訪問記続報 歌とリズムでつながった。「リズム」の子どもたちと 野村みどり ・冤罪追跡レポート 前田元検事によるFD改竄が意味するもの 竹澤節子 ・声、こえ、コエ ・発言あり(投稿) 元特攻隊員からの手紙 大君の「屁」のために死ねるか! 「海ゆかば」 信太正道 ・自治体漂流 -- 唾棄すべき、この感覚 布施哲也 ・自然を観る・64 --キノコ採り遠足 平林 浩 ・「第3次男女共同参画基本計画」と「ジェンダー」 冨田幸子 ・虫めがね -- いのちの形容 最首 悟 ・高齢者施設レポート・18 「おれは日誌を書いたよな」--尋ねることが支えに 佐藤与志子 ・父として母として -- 「はじめて」にどきどき 島田伸恵 ・インフォメーション、さいたま市 ノーマライゼーション条例(仮称)最終案に思う ・発言あり -- 賢察の犯罪 柴崎 律 ・雑誌『人権と教育』再刊へのアピール 津田道夫 ・沖縄普天間基地の即時無条件撤去を! 宮永 潔 インクルージョンふぉーらむ2010 -- 障害児の航行就学は権利だ ・編集後記 -------------------------------------- 雑誌『人権と教育』再刊へのアピール 本誌、増刊『人権と教育』は、51号(2009年11月)をもって一時休刊のやむなきに到りました。 理由はいくつかありますが、その最大のものは取次店を通して配本する小売店の売り上げ部数が、このところ激減してきたことにあります。 それは発売元を引き受けてくれていた社会評論社にも多大の迷惑をかけることとなり、併せてこれが実現する会の会計を圧迫してきたところともなりました。 第二に、事務局を中心とした活動家諸君の理論的力量が相対的に低下してきたこともあげられます。 雑誌には、これまでも会外の友好的な執筆者の皆さんの、それこそ無償の援助があり、それに私たちは最大限の感謝と敬意をささげるものです。 しかし、やはり直接運動を担いとらねばならない事務局の活動家諸君の理論的力量が、雑誌と状況が要求するあらゆる課題に応えることができないようでは魅力ある誌面づくりができかねるのもいたしかたないところでありましょう。 雑誌『人権と教育』は、もと『障害者教育研究』という誌名で、現代ジャーナリズム出版会から1978年1月に第1号が刊行されました。 一つには養護学校義務化を翌79年に控え、「親(本来的には本人)の学校選択権」の思想を武器に、これにどう対決し、かかわりのある皆さんの理論的関心にこたえようとの意図からでした。 併せて統合教育の実践にともなって寄せてきた諸々の障害についての理論的解明をも試みようとした次第です。 ところが、現代ジャーナリズム出版会の倒産にともない、第13号(84年3月、半年刊)を最後にこれは終刊を余儀なくされたのです。 そこで私たちは無理を言って増刊『人権と教育』として社会評論社に発売元を引き受けてもらったのですが、冒頭の事情で休刊を余儀なくされました。 その間の協力に対し、現代ジャーナリズム出版会の巌浩社長、社会評論社の松田健二社長には深甚の謝意を表明させていただきたく存じます。 以上のような経過と、ここに来ての困難もありますが、障害児・者をふくむ状況や、それにともなう教育の問題、政治・思想の問題は日々新しい課題を私たちに突きつけているといえるでしょう。 ここに復刊第一号を送るに当たっても、メキシコ湾原油流出事件や普天間問題、それに韓国併合百年の問題なども扱わざるをえませんでした。 私たちは、通巻番号通しで雑誌『人権と教育』を再刊するにあたり、二十世紀の偉大な思想家、レーニンの次の箴言を心に刻みたいと考えます。 「出来ないといわないでしたくないといえ、為そうと欲するものは為しうる」。 旧来の雑誌『人権と教育』の読者の皆さん、どうか年二回刊のこの雑誌を、自分たちの共通の精神的武器として、御購読の継続をお願い申し上げます。 また、近くの友人の方にもおすすめいただけると幸いです。 どうぞよろしくお願いします。 10・10・24、PQR -------------------------------------- 人権と教育52 巻頭言 再刊への抱負 障害児いじめは人権侵害だ いじめを放置する学校、どう解決したか 山田英造 資料、要望書 桂山隼人くん学級内いじめ事件(福島市) 編集部 編 私は泣き寝入りをしない 桂山かおり 「いじめは」無意識にも 菊地絵理子 いじめっこもいい子になるぞ 野村みどり 困った子は、困っている子 発達障害児と出会う 遠藤行博 【海外情報】盲児統合教育と国立スペイン盲人協会 荒井優子 【発言あり1】「改正」入管法、住基台帳法の批判 高柳俊哉 【発言あり2】「障がい者制度改革推進のための基本的な方向」への意見 石川愛子 状況、いまここにある難題 メキシコ湾原油事件流出事件は何をかたるか 佐藤 努 韓国併合と大逆事件 百年前のそれは偶然の一致ではない 竹澤節子 普天間問題、政治家だけに任せていいか 竹澤節子 心の働きを科学する(研究論文) 発達障害の何が問題か その位置づけと分類を問い直す 柴崎 律 動物と人間のあいだ 心の働きから行動をみる 津田道夫 授業書「本能と学習」のこころみ 平林 浩 インクルージョンふぉーらむ案内 編集後記 表紙・障害児の絵 -------------------------------------- #
by tomoni_kk
| 2010-11-22 21:11
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