最新の記事
以前の記事
2015年 12月 2014年 10月 2012年 11月 2012年 06月 2012年 03月 2012年 02月 2011年 12月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 07月 2010年 05月 2010年 02月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 07月 2008年 05月 ライフログ
カテゴリ
検索
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
「リンゴの歌」流るるなか「国体護持」論が
津田 道夫 昭和天皇の親戚筋に当る東久邇宮の内閣は、陸海軍は解体したものの、戦時内閣の継続のような代物であった。 これに対して幣原(しではら)喜重郎内閣(45・10・9)こそが本来の戦後内閣の嚆矢といえる。 幣原喜重郎内閣 幣原は1921年11月、ワシントン軍縮会議で日本全権大使に任命され、病をおして軍縮交渉の妥結に努力した。 帰国後、24年からは外務大臣に就任(加藤高明内閣)、平和外交を展開した。いうところの幣原外交である。 それは米英強調外交ともいわれ、軍部や右翼から「軟弱外交」だと激しい非難をあびせられた。 それでも幣原は日本と中国との友好関係を主張、中国侵略は世界平和を乱すと、一貫してこれに反対した。 パリ不戦条約(28)の批准に尽力したのも、幣原外相である(日本の批准は29年)。 これは正式には「戦争放棄に関する条約」と称され、独・米・仏・英・伊・日など15か国が提案国となり、その後63か国が批准した。 ここではじめて「戦争放棄」(第1条)、「紛争の平和的解決」(第2条)が国家間関係の合理的規範として宣言されたのである。 ところで、31年軍部がいよいよ満州侵略(九一八、チューイーパー)をはじめる段になると、外相として軍部に強く迫って、軍事行動の拡大に反対していたが、31年12月、時の若槻礼次郎内閣(この内閣でも幣原は外相だった)が総辞職するに及んで、彼も外相を辞め、以後敗戦まで公職につくことはなかった。 この意味で、幣原は戦争責任問題にかんし、結果責任としての政治責任からは、ほぼ免かれていた。 そのような幣原の内閣をこそ、本来の戦後内閣の嚆矢であるとしたのである。 そして幣原内閣が初めに執ったのは、一連の弾圧法規で獄中にあった政治犯の釈放ということであった。 マッカーサーの指示と「松本四原則」 幣原は組閣の直後、マッカーサーを表敬訪問した。そのさいマッカーサーは明治憲法の抜本的改正にかんして、つぎのような指示をした(朝日、45・10・12)。 《ポツダム宣言を履行するにあたり、日本国民が何世紀もの長きにわたって隷属してきた社会の秩序伝統を矯正する必要があろう。 日本憲法の自由主義化の問題も当然この中に含まれてくるであろう。 日本民衆は、政府がその日常生活に立入って秘密に取調べを行ない、その結果民衆を事実上の奴隷心理に陥れつつある事態から完全に解放されねばならず、また思想、言論、信教の自由を抑圧する一切の制限から解放されねばならない。・・・》 ここに明治憲法の抜本的改正がマッカーサーから提起された訳である。 そして幣原内閣は、東京帝大教授の松本烝治を国務相に迎え、「憲法調査委員会」を設置するところとなる(45・10・13、閣議了承)。 ところが約2か月を要して得られた新憲法にかんする「松本四原則」(45・12・8)なるものは、つぎのようなお粗末なものであった。 はじめの二項目のみ引用する。 《1 天皇が統治権を総攬せられるという基本原則には、なんら変更を加えないこと。 このことはおそらくわが国の識者のほとんど全部が一致しているところであろう。 2 議会の議決を要する事項を拡充すること。 その結果として、大権事項をある程度削減すること。》 つまり天皇=統治権論という明治憲法的観念を軸に、議会の権力拡充をつけたりとして表明したものに過ぎない。 「大権事項をある程度削減すること」といわれる「大権事項」とは、明治憲法に規定された天皇大権のことである。 そして松本四原則は「臣民の自由および権利の保護」拡大を第四原則として提示せざるべくして提示していたにとどまる。 この「松本四原則」よりも早く、合法活動を公然化しはじめていた日本共産党は、45年11月11日、「日本共産党の『新憲法の骨子』」なる六項目要求を公表していた。 第一項、二項、四項、五項のみ紹介する。 《一、主権は人民に在り 二、民主議会は主権を管理す、民主議会は十八歳以上の選挙権、被選挙権の基礎に立つ、民主議会は政府を構成する人々を選挙する 四、人民は政治的、経済的、社会的に自由であり且つ議会及び政府を監視し批判する自由を確保する 五、人民の生活権、労働権、教育される権利を具体的設備を以て保証する》 これは松本四原則の対極にあり、「天皇制を打倒して、人民の総意に基く人民共和政府の樹立」という「人民に訴う」(日本共産党出獄同志、徳田球一・志賀義雄外一同、45・10・10)の線を「新憲法の骨子」として示したものであるが、その「人民共和政府」としてはソ連型ではなく、むしろアメリカ型に近い共和制がイメージされていたと思われる。 この頃になると、共産党の目覚しい活動と併せて、労働組合も組織されはじめ、漸く大衆運動がもり上がってきていた。 巷間、並木路子の歌う「リンゴの歌」が流行りはじめる。 各政党と「天皇主権」問題 ところが、戦後結成をみた保守諸政党は、なお天皇主権に固執していた。 天皇主権・「国体護持」が、当時の支配層の共通の価値であった。 まず、46・1・21発表の日本自由党の「憲法改正要綱」から「天皇」にかかわるところを引用する。 《一、統治権の主体は日本国家なり 二、天皇は統治権の総覧者なり 三、天皇は万世一系なり 四、天皇は法律上及政治上の責任なし》 基本的に明治憲法の思想的骨格と何ら変りがない。 日本進歩党の「『憲法改正問題』抄」も大同小異であった。 同党は、のっけに「日本進歩党は立党の初め其の綱領の第一に『国体を擁護し、民主主義に徹底し、議会中心の責任政治を確立す』と宣言した。 我党の主張が天皇制護持にあることは極めて明白である」と方針をのべ、「天皇は臣民の輔翼に依り憲法の条規に従ひ統治権を行う」といっていた。 これらでいわれている「天皇制」が、後の象徴天皇制ではなく、明治憲法にいう天皇制であるのはいうまでもない。 それに「帝国議会の協賛」その他をつけたりとしているにすぎないのだ。 しかも進歩党案は、依然「臣民」という用語を用いていた。 保守政党というのではないが、日本社会党は、その「『新憲法要綱』抄」において「主権と統治権」のところで、こういっていた。 《一、主権 主権は国家(天皇を含む国民協同体)に在り 二、統治権 統治権は之を分割し、主要部分を議会に、一部を天皇に帰属(天皇大権大幅制限)せしめ、天皇制を存置す》 「主権は国家・・・に在り」などというのは同義反復ではないのか。 国家は主権を前提し、主権は国家の属性であるからである。 そのうえで社会党は、統治権を議会と天皇に二分割しようという訳だ。 もっともこれより先(9・22)、社会党結成懇談会の折、浅沼稲次郎は国体護持を主張、賀川豊彦が天皇陛下万歳の音頭をとる有様で、荒畑寒村らが憤慨して退出する一幕もあった。 これらの「要項」の類いを今日ふり返ってみれば、現行憲法との径庭(けいてい)は、遠しも遠し白雲万里の感なきをえない。 このような状況は“憲法革命”を不可欠としていた。 それが、どこからどうやって可能になったか、何れ行論で述べたい。 この間にあってGHQは、引き続き一連の民主化指令を日本政府に発していた。 「軍国主義的・超国家主義的教育の禁止」(10・22)、「教育関係の軍国主義者・超国家主義者の追放」(10・30)、「持株会社の解体」(財閥解体、11・6)、「国家と神道の分離」(12・15)、「農地改革」指令(12・9)、「修身・日本歴史・地理の授業停止、教科書回収」(12・31) ――GHQも、日本の為政者にまかせておいたのでは、ポツダム宣言の民主化条項の実施は不可能であると漸く気づいたようである。 (08・10・4) 掲載誌 「月刊・人権と教育」420号 2008年11月20日発刊
by tomoni_kk
| 2008-12-01 14:37
| 憲法
|
ファン申請 |
||