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民間憲法案――敗戦直後と明治初期と
津田 道夫 政府の「憲法調査委員会」(松本烝治委員会)や保守政党が、「天皇主権」「国体護持」にうつつをぬかしている頃、民間学者有志による新憲法案もだされはじめた。 憲法研究会の「憲法草案要綱」 なかでも、とくに著名であり、日本国憲法制定につき一定の影響を与えたと思われるのは、高野岩三郎(労働法専攻)、馬場恒吾(ジャーナリスト)、杉森孝次郎、森戸辰男、岩淵辰雄、室伏高信、鈴木安蔵らの憲法研究会である。 その「憲法草案要綱」(45・12・26)の「根本原則(統治権)」と「国民の権利義務」のところのみ、左に全文とりだしておく。 《根本原則(統治権) 一、日本国の統治権は日本国民より発す 一、天皇は国民の委任により専ら国家的儀礼を司る 一、天皇の即位は議会の承認を得るものとす 国民権利義務 一、国民は法律の前に平等にして出生又は身分に基く一切の差別は之を廃止す 一、国民の言論学術芸術宗教の自由を妨げる如何なる法律をも発布するを得す 一、国民は拷問を加へらるることなし 一、国民は国民請願国民発案及国民表決の権利を有す 一、国民は労働の義務を有す 一、国民は労働に従事し其の労働に対して報酬を受くるの権利を要す 一、国民は健康にして文化的水準の生活を営む権利を要す 一、国民は休息の権利を有す国家は最高八時間労働の実施勤労者に対する有給休暇制療養所社会教育機関の完備をなすべし 一、国民は老年疾病其の他の事情により労働不能に陥りたる場合生活を保障さる権利を有す 一、男女は公的並私的に完全に平等の権利を有す 一、民族人種による差別を禁す (以下略)》 いささか長い引用に及んだのは、右がその根本思想において現行憲法に多く重なる部分をもつからである。 しかも、最初の幣原政府案には勿論、GHQ案にもなかった「健康にして文化的水準の生活を営む権利」が、すでに打ち出されていることである。 それに、これは日本政府がもたもたしている段階で、45・12・26に提出されているのだ。 この点でも民間が政府に先んじていた。 しかも、リベラリストの高野岩三郎は、別に45年12月28日、「天皇制に代えて大統領を元首とする共和制の採用」を提唱していた。 その「主権及び元首」の部分のみ引用する。 《日本国の主権は日本国民に属する 日本国の元首は国民の選挙する大統領とす 大統領の任期は四年とし再選を妨げざるも三選するを得ず 大統領は国の内外に対し国民を代表す 立法権は議会に属す 大統領は行政権を執行し国務大臣を任命す 条約の締結は議会の議決を経て大統領之に当る》 後に憲法案起草にたずさわるGHQ民生局は右の憲法研究会の案にもっとも注目した。 しかし同案にも「戦争放棄、非武装条項」はなかった。 しかるに「日本の青空」などという映画上映運動がおこり、それにともない、その条項は空白になっていたなどという伝説が罷り通りはじめたのは、歴史をたばかるものとしかいえない。 その他に、民間草案としては、稲田正次案、清瀬一郎案、布施辰治案、大日本弁護士会案などもあった。尾崎行雄を中心として岩波茂雄、海野晋吉、信夫淳平らによる憲法懇談会案も46年3月4日に発表されたが、その時すでにGHQ案ができていて、それに基づく日本政府案も用意されつつあったため、改憲過程に影響を及ぼすことはなかった。 自由民権運動と民間の憲法制定運動 ここで事柄を対比するため、大日本帝国憲法が「欽定憲法」として発布されるに先だち、自由民権運動と並行して、あるいはその中味としてつくられ、ある程度大衆的にも討議された明治前期の民間憲法諸案について概観しておきたい。 振り返ってみれば、明治維新革命は“復古”と“革命”という二重性をもっていたといえる。 前者の道として権力を掌握した薩長藩閥政府は、“玉”としての明治天皇をかついで、絶対主義天皇制確立の布石をつぎつぎ打っていった。 それは軍事においても、行政についても、教育についてもいうことができる。 これに真正面から対決し、その自壊のときまでブルジョワ民主主義革命を目指したものこそ、自由民権運動であった。 そこから憲法制定・国会開設の要求もでてきた。 そして、1880年(M13)、国会期成同盟がつくられ、翌81年10月、日本初の全国政党として自由党が結成された。 こうした動きをうけて明治藩閥政府も明治23年に国会を開設すると約束する「詔勅」をださざるをえなくされた。 この国会開設要求運動の盛り上りのなかから憲法づくりの草の根運動が起り、1881年(M14)、土佐出身の若い植木枝盛の日本国憲法草案が起草された。 彼は1877年、立志社に加わり、「立志社建白書」を起草、さらに立志社憲法起草委員の一人として「東洋大日本国国憲案」を起草した。 そこでは「日本の国家は日本各人の自由権利を殺減する規則をつくりて之を行ふを得ず」といい、「日本の人民は・・・健康を保ち面目を保ち地上の物件を使用するの権を有す」と、その権利思想は自由権のみならず社会権にも及んでいた。 この期の憲法草案でもう一つ注目されるものに、戦後色川大吉により発掘された八王子・五日市の憲法草案がある。 仙台出身の青年千葉卓三郎が中心になって五日市の青年たちや民権家が一緒につくったものとされる。 私擬憲法「日本帝国憲法」がそれで、絶対王政の原理にかえて人民主権の論理につらぬかれていた。 このころ自由民権運動が、いっせいに草の根レベルで憲法づくりにとり組みはじめたのは、1880年(M13)に開催された国会期成同盟第二回大会で、つぎの大会までに「憲法見込案」を研究・持参することが決められたからである。 そして全国22府県の代表がそれぞれ故郷に帰って「憲法見込案」づくりにとりかかった。 色川大吉の調査によれば、このような「私擬憲法草案」といわれるものが現在までに40種類発見されている。 戦後の日本自由党や日本進歩党の改憲案と比べて(連載第2回)、今昔の観なきをえない。 しかし、こうした草の根憲法づくりの運動といわれるものを断ち切ったのは、明治14年の政変といわれる1881年10月11日にだされた勅諭だった。 いわく、「憲法の論、朝野嘖々(さくさく)三尺の童子も耳熱するに至れり」といわれ、筆頭参議の大隈重信が民権派に近い憲法建議を提出するに及んで、岩倉具視、伊藤博文らがかれを閣外に追放、一切の憲法論議を禁圧するに至ったのである。 伊藤たちは、この後ヨーロッパで最も反動的なプロイセン憲法をモデルに大日本帝国憲法をつくったのである。私は何がいいたいのか。 よく現行日本国憲法は“押しつけ憲法”だといわれる。 しかし、もし“押しつけ”をいうなら、家永三郎もいうように、草の根レベルの憲法論議を一切禁圧したうえで、上から押し付けられた大日本帝国憲法ではなかったのか。これ、「欽定憲法」といわれるゆえんである。 1889年(M22)2月11日のことだ。「欽定」とは君主自らが制定したことを意味する。 08・10・7
by tomoni_kk
| 2008-12-28 22:18
| 憲法
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