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「津田道夫を偲ぶ会」
多岐にわたる活動 多彩な顔ぶれ 障害者の教育権を実現する会 石川愛子 去る10月31日、津田道夫さんが亡くなるまで住んでいた埼玉県久喜市の三高会館で、予想を越える65名もの人々が集まって「津田道夫を偲ぶ会」が行われた。 主催は、「津田道夫を偲ぶ会」実行委員会(石川愛子、進藤敬子)。障害者の教育権を実現する会、九条の会・久喜、績文堂、社会評論社、論創社、高文研、全国障害学生支援センターが後援団体として名を連ねている。 第Ⅰ部は、シンポジウム「津田道夫の仕事」。社会評論社の松田健二さんの司会で、まず、障害者の教育権を実現する会運営委員で出前教師の平林浩さんは、和光小学校で全盲の高橋しのぶさんを担任したことから津田道夫さんとの付き合いの始まったことや、『本能か意志か』(論創社)にまとめられている動物の本能のことなどについて、その間のやりとりを紹介された。 つづいて編集の仕事をされている山縣淳男(久坂文夫)さんは、かつて「現状分析研究会」を一緒にやられていた。津田さんは、マルクス主義の原理的再建を掲げて「現状分析研究会」を1957年に立ち上げ、『現状分析』という研究誌を発行されていた。山縣さんは、70年の運動昂揚期に、研究会をやめて運動実践への道を選ばれたが、別に反目していたわけではないと話された。 『季刊ピープルズ・プラン』編集長の白川真澄さんは、津田著『国家と革命の理論』(青木書店、増補版・論創社)について、国家が持つ暴力装置としての側面だけでなく、国家には共同幻想性があるという指摘に当時から注目されていたこと。立憲主義というのであれば、プロレタリア独裁に対する反省を込めて言わなければならないのでは。そのことを、津田さんと討論したかったと述べられた。 続いて、東京電機大学の石塚正英さんは、大井正さんを通じて知り合い、「ふぉーらむ90s」などでご一緒されたという。政治よりも文化の面から、沖縄独立論でなく、津田道夫の『ハワイー太平洋の自然と文化の交差点』(社会評論社)にみられる環太平洋ハワイ・沖縄論を引き継いでいきたいと宣言された。 最後に「実現する会」の宮永潔さんは、運動のなかで津田さんが提起された親(本来的には本人)の学校選択権のこと、権利と義務との違い、運動のなかで紡ぎだされた認識論、とりわけ気分論について自身の小学校での実践から、その有効性を説明された。 会場からは、遠く大阪から参加された『唯物論研究』編集長の田畑稔さんが、津田さんは、在野の思想家としての分厚さがあり、最先端でバトルをやられた人と評価された。ヘーゲルの精神哲学、法の哲学を実践的に読み込まれ、認識論から意志論へと、その成果は津田さんの著書の中に表現されていると。 津田さんの活動が、学問、思想、社会運動、教育運動と多岐にわたるにもかかわらず、それが根底のところで繋がっていることも浮き彫りにされたシンポジウムであった。 第Ⅱ部では一転、進藤敬子さんの司会よろしく、大いに飲み、かつ会食しつつの和やかな会となった。 「実現する会」の元代表顧問国分一太郎さんのご子息国分眞一さん、久喜の市議会議員を代表して猪股和雄さん、全盲の浅井一美さんを受け入れた中学校の教師で埼玉教組副委員長の倉持光好さん、障害児を普通学級へ全国連絡会の北村小夜さん、出版関係など多彩な方々が津田さんの仕事や印象を語ってくださった。 途中、在りし日の津田道夫さんの映像も投影され、最後に「この会が津田道夫の仕事を後に繋ぐ一助になれば幸いです」との実行委員会挨拶でこの会を閉じた。 津田道夫さんの付き合いが多面的で、多くの人々におよんでいたことを実感させられた会でもあった。 津田道夫追悼文集(60名以上執筆)は「実現する会」事務所で取り扱っています。1冊1000円(送料込み)。数に限りがありますので、お早めにお申し込みください。 『人権と教育』492号 掲載記事 《筆者の了解を得て転載させていただきました。》 障害者の教育権を実現する会へのリンク --------- 「津田道夫追悼文集」 目次 I 障害者の教育運動 -『人権と教育』の活動 権利感情は多くの人に受け継がれていく 宮永 潔(「実現する会」事務局総務) 津田さんの教えをたいせつに 佐久間敏行(『人権と教育』編集部) 追悼文よりデモ優先! サトウアトム(「人権と教育」編集部) 人権と民主主義、平和のために闘いつづけた 石川愛子(『人権と教育』編集部) ヒラセン学問の話をしようぜ 平林 浩(出前教師、科学教育研究) “学問をしろ”と言ってくれた人 市丸みさ子(「実現する会」運営委員) 偶然と必然 殿岡駿星(勝どき書房) 久喜の地域でいっしょに行動してきた 猪股和雄(久喜市議会議員) 諸行無常 仙人は逝ってしまった 柿沼信敬(「実現する会」会計監査) 津田さんと和子さんと 柿沼由美(久喜市在住・主婦) 権利は与えられるものでなく、かちとるもの 田村一夫(久喜市在住) 浅見先生との出会いあればこそ 荒井芳江(久喜市在住) 津田道夫さんと蕎麦の花 竹澤節子(元小学校教員) オールドひろし先生 外岡章子(会社員) 津田道夫さん、楽しい時間をありがとうございました 吉川 守(「実現する会」運言委員)吉川眞理子(常滑市在住) 学校選択、職業選択権で 堀利和 (元視覚障害者労働問題協議会代表・現NPO法人共同連代表) 年寄りが一人亡くなるのは、地域の図書隻が一つなくなるに等しい 遠藤行博(兵庫県小学校教員) 津田さんとロシアに行った話 深江洋司(埼玉県蓮田市) 真摯に歴史と向き合った人 深江瑞枝(元蓮田市議会議員・「実現する会」運営委員) 夏季合宿でお会いして 殿岡栄子(主婦・町田市) 追悼句 田村晶子(久喜市障害児をもつ親の会) Ⅱ 九条の会・久喜 「ごめんね、津田さん……」 進藤敬子(九条の会・久喜) あなたの教えは、心のなかに聞こえてきます 渋谷晃次(九粂の会・久喜事務局長) 「津田道夫の世界」との出会い 木村奉憲(九条の会・久喜世話人・事務局) 津田先生との思い出 栗原規昭(九条の会・久喜) 「先生、お宝にします」 関口一夫(九条の会・久喜) 天国の津田先生へ 桜井佳寿子(九条の会・久喜) 子どもたちを再び戦場に送らぬために 渡辺昌代(久喜市議会議員) 最後の弟子より 川辺美信(久喜市議会議員) 津田先生とのエピソード 白石八重子(久喜市在住) Ⅲ 出版関係 それは『ゲントロ』から始まった 松田健二(社会評論社) 津田さんの「愛国心」論 梅田正己(元三省重・高文研) 編集者として初めての本 林 順治(元三一書房) 学問的厳密さと古武士のごとき人間味 渡辺和子(現代思潮社編集長) 現代マルクス・レーニン主義研究の継続と進化へ 仲佐秀雄(通信放送資料室ユマニスム文庫) 津田道夫さんとの「勉強」 寺本佳正(こぶし書房編集部) 津田道夫さんときらかずこさんとの思い出 冨田一彦(新社会党機関紙「週間新社会」編集部) 激しさと、アッケラカンと 厳 浩(歌人・現代ジャーナリズム出版界) Ⅳ 文化活動・社会運動 津田さん、ありがとうございました 国分真一(団体職員) そもなれ初めは 石塚正英(東京電機大学) 津田道夫さん追悼 田畑 稔(季報『唯物論研究』編集長) 南京虐殺記念遺跡の見学 山内小夜子(京都府長岡市、真宗大谷派僧侶) 埼玉で出会った 比嘉辰夫(新日本文学) 中野重治の聞き取りに伺って 竹内栄美子夭学教員) 津田さんが割いてくれた珠玉の時間 大橋一雄(軍事史研究) 津田道夫さんはサイショク主義者?だった 乙部武志(綴方理論研究会) 無邪気の人 志真斗美恵(大学非常勤講師) 『現トロ』で出会い、フォーラム90’sでご一緒に 白川真澄(「季刊ピープルズープラン研究」編集長) 津田道夫さんとの出会い 池田祥子(元大学教員) 津田道夫さんとの思い出 鈴木 正(思想史家) ひらマルクス主義者 志真秀弘(再考再論の会・績文堂出版) 卓越したナショナリズム批判 小林 隆(再考再論の会・績文堂出版) 無 題 菅原 主(会社経営) 出会ったころ 岸 宣夫(麦秋の会) 津田道夫さんを偲んで 大藪龍介(元福岡教育大教授) V 現状分析研究会 戦後70年の運動の中で 山懸淳男〔久坂文夫〕(現状分析) 『国家と革命の理論』から『国家と意志』へ 原嶋正司(現状分析・元青木書店・績文堂出版) 現状分析のころ 石井秀樹(現状分析・績文堂出版) 人間として存在せしめよ 竹内克美(現状分析) 意志論:ヘーゲル『法の哲学』読解の射程 中崎章夫(現状分析) Ⅵ 兄弟等 兄と和子さんの思い出 遠藤玲子(妹、静岡市) 〈バカノアンドー〉のこと 安藤重夫(義妹の夫、さいたま市) ほんとうは〈淋しい人〉だった 安藤延子(義妹、さいたま市) 天衣の縫い目 加藤民子(義妹、山形県天童市) 津田道夫のプロフィール 津田道夫主要著書一覧 --------- 津田道夫essayの編集者・猪股和雄が書いた文章だけ、ここに抜き出しておきます。 久喜の地域でいっしょに行動してきた 猪股和雄(久喜市議会議員) 津田さんと初めてお会いしてから30数年ほどになるだろうか。 学生の頃から『国家と革命の理論』の著者・津田道夫の名前は知っていたが、久喜に住んでいるとは思わなかった。 私が議員になってしばらくして、柿沼由美さんから障害児の親としての思いや“統合教育”のお話を聞かせていただいて、実現する会の運動を知った。 その後に、あの書斎に上がり込んでお話をする機会を得たのだったが、最初は“偉そうにしゃべる人”というイメージだった。 全盲児童・荒井順平君の地元小学校への入学を機に、私自身が点字を勉強して教科書や教材作りにも携わり、学校や担任教師との話し合いも重ねていって、学校でのそうした取り組みの報告や相談などでたびたび津田さん宅を訪れることになった。 津田さんは私の報告を興味深そうに聞きながら、その時々の状況に応じたアドバイスもいただいた。 それは障害児統合教育(当時はまだインクルージョンとは呼ばなかった)の教材保障を求める市民運動へと発展していったのだが、津田さんの支援があってこそだったと思う。 その後、県立高校点字受験を実現するとりくみ、さらに久喜で2人目の盲児統合教育の実現にもつながっていった。 17年くらい前から、私が『人権と教育』の点訳を引き受けることになって、その打ち合わせを兼ねて毎月定期的に津田宅を訪問し、久喜市政や議会のお話もするようになった。 一度、駅前の点字ブロック上に放置された自転車をどかしていたら、たまたま通りかかって手伝ってくれたこともあった。 毎回の市議選の時には、私のパンフレットに『猪股君を推す』という文章を寄せてくれて、選挙中には街頭に立って応援演説をしていただいたりもした。 久喜での有事立法反対運動、2回の合併反対運動、9条の会など、地域の住民運動、市民運動にも積極的に関わってこられた。 人が集まってきて、そのまん中にいて、人に自分の話を聞かせるのが好きな人だった。 (聞いていないと見ると怒鳴り出すのには閉口したけれども)。 津田さんは、以前は肩書きを“著述業”としていたのが、最近は“評論家”と変わってきた。 私が「市議会で、自分の立場を明確にせずに、第三者的に他人の批評ばっかりしてる“評論家”みたいな議員もいる。どうも、評論家っていうのはイメージがよくないんじゃないか」と言ってみたことがある。 津田さんは「そういうのは評論家じゃなくて日和見主義者と言うんだ」と答えた。 「しっかりした思想と勉強してない人には、的確な評論もできない」とも付け加えられた。 #
by tomoni_kk
| 2015-12-05 16:22
| 人権
津田道夫氏が2015年10月22日、亡くなられました。
津田さんは久喜市本町8丁目にお住まいで、市議選で私はずっと津田さんの応援をいただいてきました。 下は、1999年の市議選に際して、私のために寄せてくださった一文(後援会パンフ)ですが、いま読んでみて、改めて津田さんの言葉を心に刻みたいと思います。 ---------------- 市民の責任の自覚 評論家 津田道夫(本町8丁目) 最近、気づいたのであるが、猪股さんは街中などで出会うとき、議員バッジをつけていない。 議員風を吹かすことなく、議員としての手前のところで、市民として責任をとっていこうということなのだろう。 人体、特に子どもに有害な農薬散布にみんなと一緒に反対したり、社会的弱者、特に障害者の福祉・教育に貢献する活動にたずさわったり、その寧日(ねいじつ)なき働きぶりには、妻ともども感心している。 盲児統合教育の運動に関わって点字もマスターしてしまった。 そういう猪股さんが、形式主義的な議会運営や利権優先のあり方に反対してたたかってくれることを期待したい。 ---------------- もっとも、人権と民主主義、不戦・非武装の日本国憲法を守る立場からは、猪股だけじゃなくて共産党のWや社民党のKもそれぞれみんな勝たせなきゃならんと言ってまわりに呼びかけておられました。 告別式は10月27日、久喜葬祭会館で無宗教で行われ、メモリアルトネにて荼毘に付されました。 ご遺族や友人たちで話し合った結果、お骨はその日の内に、羽生霊園の永代供養塔に、6月に亡くなられた妻・和子さんのお骨と並べて納められました。 ご本人は生前よく私たちに、骨は利根川にでも撒いてくれと言っていました。 羽生霊園は利根川の縁にある新しい霊園で、いずれは永代供養塔の下の土に「散骨」されることになっていますので、故人の遺志に沿う形になったと思います。 津田道夫(本名 浅見浩) プロフィール 1929年(昭4) 5月14日 埼玉県幡羅村(現深谷市)に、父浅見真吉、母ラクの3男と して生まれる。(4男1女の3番目、次男は3歳弱で早逝) 真吉は、小学校訓導。後、県立熊谷高女を経て県立久喜高女へ。 32年(昭7) 久喜町(久喜市)に転居。母ラクは、小学校訓導を退職。 36年(昭11) 久喜町立久喜尋常小学校入学。(7歳) 38年(昭13) 4月1日 日赤病院で、肺門淋巴腺腫脹と診断される。まもなく回 復。 7月10日 母ラク肝臓ガンで死去(小3、9歳)。 40年(昭15) 2月24日 父、母マサと再婚。(10歳) 9月~11月 大病 41年(昭16) 4月 久喜国民学校初等科6年。(12歳)。 42年(昭17) 埼玉県立浦和中学校入学(13歳)。1、2年-週1度の援農作業 44年(昭19) 中3の8月から与野駅近<の新潟鉄工所へ通年勤労動員 47年(昭22) 埼玉県立浦和高校卒業(17歳)、気象技術官養成所(現気象大学)に入所 49年(昭24) 東京教育大学文学部史学科に入学(19歳)。 51年(昭26) 目本共産党埼玉県統一会議のビューロー結成の会合(大宮市)で吉良和 子と会う。(21歳) 東部ビューロー責任者に(県と西部責任者は梶田四郎、南部は仲佐秀 雄)。 53年(昭28) 大学卒業、改造社入社。(23歳) 雑誌『改造』編集局に配属。 12月肺結核で滝野川病院に入院。 55年(昭30) 1月病気回復し、退院。 改造社倒産。以後、編集校正のアルバイト 57年(昭32) 日本生産性本部出版部勤務。(27歳) マルクス主義の理論同人誌『現状分析』主宰、以後59号まで。 60年(昭35) 日本生産性本部退職。以後著述活動に専念。(30歳) 71年(昭46) IO月、「障害者の教育権を実現する会」の結成に参加。(42歳) 今日ま で事務局員。 72年(昭47) 1月、月刊『人権と教育』発行編集顧問 現在482号編集中 78年(昭53) 1月、『障害者教育研究』(年2回刊、現代ジャーナリズム出版会発 行)編集長。 (48歳) 以後13号(84年3月)まで。 84年(昭59) 11月、雑誌『人権と教育』発行(年2回、社会評論社発売)。編集長 (55歳) 現在60号編集中。 1990年頃 長野大学講師を勤める。 2005年(平17) 「九条の会・久喜」結成、共同代表となる。(76歳) 14年(平26) 6月7日妻・和子死亡 8月30日腰椎圧迫骨折、衰弱で新井病院に入院 10月22日午後7時26分死亡。(85歳) 〈参考文献〉『ある軍国教師の日記』(高文研) 「『少国民』とよばれたころ」雑誌『人権と教育』58号 ----------------------- 津田道夫 著作目録(年代順) 1960年6月 『現代のトロツキズム』 青木新書 1961年6月 『国家と革命の理論』 青木書店(1979年4月増補 論創社) 1962年4月 共著『現代コミュニズム史』上巻 三一書房 1962年6月 共著『現代コミュニズム史』下巻 三一書房 1963年6月 『現代のマルクス主義』 青木新書 1964年7月 『思想運動の理論』 芳賀書店 1964年12月 『現代マルクス主義論争』 新興出版社 1966年7月 『レーニンー革命家の人間学』 至誠堂新書 1967年10月 『国家論の復権』 盛田書店(1972年2月増補 福村出版) 1968年9月 『日本ナショナリズム論』 盛田書店(1972年2月増補 福村出版) 1969年7月 『知識人と革命』 三省堂新書 1970年10月 『ヘーゲルとマルクス』 季節社 1972年5月 『革命政党論』 三一書房 1974年5月 共著『チリ革命の弁証法』 サイマル出版会 1976年5月 共著『権利としての障害者教育』 社会評論社 1977年8月 共著『障害者の解放運動』 三一書房 1978年3月 『思想課題としての日本共産党批判』 群出版,績文堂発売 1978年10月 共著『養護学校義務化と学校選択』 三一書房 1979年7月 『認識と教育』 三一書房 1981年4月 『障害者教育運動』 三一書房 1981年9月 共著『障害者教育と「共生・共育」論批判』 三一書房 1982年12月 『障害者教育の歴史的成立-ルソー,イタール,セガン,モンテッソーリ』 三一書房 1983年6月 『昭和思想史における神山茂夫』社会評論社 1984年3月 『実践的唯物論への道』 論創社 1984年11月 編著『統合教育一盲・難聴・遅滞・自閉のばあい』 三一書房 1986年10月 『国分一太郎一転向と抵抗のはざま』三一書房 1989年3月 『イメージと意志』 社会評論社 1992年2月 『革命ロシヤの崩壊-ペレストロイカはなんであったか』 社会評論社 1994年10月 『中野重治「甲乙丙丁」の世界』 社会評論社 1995年6月 『南京大虐殺と日本人の精神構造』 社会評論社 1997年7月 『情緒障害と統合教育』 社会評論社 1998年7月 『ハワイー太平洋の自然と文化の交差点』 社会評論社 2000年5月 『弁証法の復権一三浦つとむ再読』 社会評論社 2002年6月 『侵略戦争と性暴力-軍隊は民衆を守らない』 社会評論社 2005年2月 共著『イメージと科学教育』 績文堂出版 2006年5月 『国家と意志一意志論から読む「資本論」と「法の哲学」』 績文堂出版 2007年3月 『ある軍国教師の日記一民衆が戦争を支えた』 高文研 2009年7月 『君は日本国憲法を知っているか一焼け跡の記憶1945・1946』 績文堂出版 2010年1月 『国分一太郎一抵抗としての生活綴方運動』 社会評論社 2011年6月 『本能か意志か一動物と人間のあいだ』 論創社 2013年1月 編解説『三浦つとむ意志論集』 績文堂出版 2013年9月 『回想の中野重治-「甲乙丙丁」の周辺』 社会評論社 #
by tomoni_kk
| 2014-10-31 17:18
| 政治
沖縄米軍基地、オスプレイ、女性暴行
津田 道夫 ああ、またか、それが第一印象だった。 しかし、すぐ次の瞬間、強烈な憤怒の感情が内面に突き上げてきた。 去る10月16日、深夜から早暁にかけ沖縄県中部で起きた、帰宅途中の20代の飲食店従業員の女性が、二人の米兵に襲われ強姦され傷を負った事件の第一報に接しての私の心的反応であった。 私はその被害女性について具体的なことは何も知らない。 しかし、父もあり母もあり友もありと、固有の人間関係のなかにあって、当然固有名詞もそなえた一人の女性であることへと、想像の翼がただちに拡がっていった。 そのことで被害女性の怒り、羞恥、無念の気持ち――勿論そうした抽象的な言葉では集約しきれない気持ち――を、俄かに感得しえたからである。 二人の暴漢米兵は、沖縄県警によると、何れもテキサス州フォークワース海軍航空基地所属の、米海軍上等水兵クリストファー・ブローニング(23)と、米海軍三等兵曹スカイラー・ドジャーウォーカー(23)である(毎日、10・18)。 ここに固有名詞を刻みつけるのは、この二人の卑劣漢を戦後史の曝し台に永遠に釘づけにしておこうがためである。 この事件が米軍垂直離着陸輸送機MV22オスプレイの沖縄配備で高まった反基地感情に、さらに油をそそいだのは必然の問題に他ならない。 欠陥機オスプレイ さて、そのオスプレイである。 この10月、12機が米軍普天間飛行場(宜野湾市)への配備を完了した。米軍と日本政府の帝国主義的協同の所産である。 ところが配備完了の直後から、米軍は150メートル以上で飛行する、垂直離着陸モード(ヘリ・モード)での飛行は米軍施設内に限る、学校や病院をふくむ人口密集地域上空の飛行は避ける、などの日米政府の合意を他所に、傍若無人にこれに違反する飛行を繰り返しているのだ。 しかも、このオスプレイは、今年(12年)4月にはモロッコで、6月には米フロリダ州で墜落事故を起すといった欠陥機なのである。 その原因調査などは、なお最終的に解明されてはいない。 沖縄の民衆が、そもそもからオスプレイ配備に反対していたのはいうまでもない。 しかるに米側の裁量に日本政府は何もいえない状況にある。 それはそうだろう。 日米合意があったとはいえ、運用は米側に委ねるしかないのが実情だからだ。 オスプレイの飛行が右合意に反する毎に、政府、とくに森本防衛相は米側に注意を喚起してきた。 しかしこれはつねに後だしの注意・抗議に他ならなかった。 と、まさにそのような時期である。 前述した二人の米兵による沖縄女性の強姦事件が起ったのは。沖縄の怒りが限界点を超えつつあったのに重ねて、この強姦事件が突発したのである。 沖縄での強姦事件の系譜 周知のように沖縄は日本国土のなかで唯一地上戦がたたかわれたところである。 戦争だから殺人があるのは、いうまでもない。 しかし、これに加えて戦中から米兵による強姦事件は継続していた。 それが沖縄返還以後につづいていたのである。 そのことで自殺した女性もいたし、髪の色のちがう混血児も生れてきていた。 「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の調査では、沖縄の本土復帰から2009年までの米兵犯罪検挙数は5634件、そのうち強姦をふくむ凶悪犯罪が562件となっている。 しかし、事件発生がカウントされなかったり、訴えでない被害者の存在を勘案したりすると、この数字の背後で、どれだけの女性が傷つき、泣き寝入りを強いられていたか、想い半ばに過ぎるものがある。 「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」の宮城晴美によれば、2000年からの約10年間に、その具体相が明かになった米兵による性犯罪には次のようなものがあるという。 (1) 2000年7月3日 未明、19歳の海兵隊員がアパートに侵入し、14歳の女子中学生などの体に触るなどの猥褻行為で逮捕される (2) 2001年1月9日 海兵隊伍長が女子高校生のスカートをまくりあげ、カメラで下半身を撮影し逮捕される。 (3) 同年6月27日 飲食店から帰宅途中の20代の女性、駐車場で空軍嘉手納基地所属の軍曹に強姦される。 (4) 2002年11月2日 帰宅途中の女性、39歳の海兵隊少佐に自宅まで送るよう懇願され、乗用車に乗せたところ車内で襲われる。抵抗したため未遂で難を逃れる。 (5) 2003年5月25日 友人らと飲食中の19歳の女性、海兵隊上等兵に店外に連れ出され、民家の路地で殴られたうえ強姦致傷を受ける。 (6) 2004年8月22日 20代女性、嘉手納基地で勤務する34歳の米軍属に自宅に侵入され、強姦される(この軍属は98年にも強姦事件を起こしており、余罪で発覚)。 (7) 2005年7月3日 27歳の空軍二等軍曹による10歳の少女への強制猥褻事件起る。 (8) 2007年10月1日 22歳の飲食店従業員、空軍大佐である母親と同居する21歳の息子に強姦致傷を受ける。 (9) 2008年2月10日 14歳の女子中学生、38歳の海兵隊員に車内で強姦される。 (10) 同年2月18日 22歳のフィリピン人女性、28歳の陸軍兵士にホテルで強姦される。 これらは沖縄県警が具体的につかんでいる事件にすぎず、水面下での事件については想像していただく他ない。 事件が起るたびに米軍は「再発防止」「綱紀粛正」を繰り返すが、県や国もその言葉に甘んじてきた。しかし、こうした事件を押し止めることは出来ていない。 その最も根本的な要因は、沖縄が日本と米国の軍事植民地状態にあり、その帝国主義的協同によって、民族差別、女性差別が継続しているということである。 沖縄出身で高齢の両親は、なおそこに住んでいるという足立区の一女性は、11月7日の朝日「声」らんの投書で、こう書いていた。 《米軍基地の隣に実家がある。高齢の両親は戸締まりを厳重にし、(沖縄へ帰ると)私にも「気をつけて」とうるさくいう。 私の帰宅を遅くまで起きて待っているのかと思うと、外出もままならない。「明日夜7時よりドームで住民集会があります。 集まってください」と町の広報カーがまわっていた。 沖縄ではオスプレイが日常会話にのぼり、その配備に反対する集会が役場ごとに行なわれている。 そのさなかに米兵の集団強姦致傷事件が起きた。 命が脅され続けている現実を思い出し、「やっぱり家の前まで送って」と(車に乗せてくれた)友人に頼み直した。 東京へ戻った後、米兵による事件がまた起きた。 今度は中学生をなぐるなどしたという。沖縄のことを心配しない日はない。》(カッコ内は引用者) 題して「命脅かされつづける故郷・沖縄」とあった。 繰り返すが、沖縄に実家があり、両親もいて、本人は東京に生活する一女性のオスプレイ配備完了と、それに重ねる形で惹起された二人の米兵による強姦致傷事件に接しての率直な感慨である。 ふりかえって、私をふくむ本土日本人に、「沖縄のことを心配しない日はない」という意識・感情がどれだけあるか。 その辺に、沖縄と本土の間に、本土復帰後もなお、実質的に軍事占領下にある沖縄についての感受性に、可成りの温度差が認められないか。 私もまた一人の本土日本人として、米国と日本政府による対沖縄の帝国主義的協同のベースに僅かなりとも加担しているのではないか、という感情が突き上げてくる。 とすれば、最初の憤怒は、私において羞恥の感情でもある。 (12年11月7日) 掲載誌 「月刊・人権と教育」462号 2012年11月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 462号 目次 ・沖縄米軍基地、オスプレイ、女性暴行 津田道夫 ・中教審答申は「権利としての教育」の破壊だ -- 行政に障害児の就学先の決定権を与えてはならない 山田英造 ・冤罪追跡レポート -- マイナリ氏は無罪 --「東電OL殺人事件」再審に 竹澤節子 ・声、こえ、声 ・自治体漂流 -- 原発自治体消滅(16) -- 原発を推進する維新の会 布施哲也 ・マイブックレット紹介 生存権を訴えた権利宣言 --「いま 子どもがあぶない --福島原発事故から子どもを守る『集団疎開裁判』」ふくしま集団疎開裁判の会 野村みどり ・自然を観る 81 -- 身近な生きものたち 平林浩 ・高齢者施設レポート35 -- 人生の終わりが見えた日 -- 食べなくなって痛がって 佐藤与志子 ・学校場からのレポート -- なんともうらやましい子どもの柔軟な感性 遠藤行博 ・虫めがね -- 永喜一家生まれ島へ帰る 石田甚太郎 ・父として母として -- 目標の10メートルを走りきる -- 車いすに乗って運動会競技に参加 赤沼智賀 ・父として母として -- 集団の中でコミュニケーションの意欲も育まれ --肢体不自由の娘の1年生1学期 小池有子 ・父として母として -- 元気な歌声が響く -- 公費負担の介助員を獲得 伊藤智子 ・発言あり -- 誤認逮捕と誤判 -- 自白強要の典型、ネット犯罪捜査 藤井亜理 ・雑誌『人権と教育』56号刊行! いま日本国憲法改悪の動きが! ・編集後記 ------------------------------------- #
by tomoni_kk
| 2012-11-27 11:59
| 人権
自民党改憲草案と現下の憲法情勢
―― 今こそ「改憲潮流」への反撃を 津田 道夫 自民党は、去る12年4月27日、「日本国憲法改正草案」なるものを発表、その際、谷垣禎一総裁は「自民党が先頭に立って自主憲法制定に向けた取り組みを加速させ、日本の進むべき進路と骨格を明確にして行きたい」と、力を込めて発言、併せて次期総選挙でもその内容を世に問うて行くと表明した。 では、その「日本の進むべき進路と骨格」を明示したという改憲草案は、何を語っているか。現行の日本国憲法との関連でどんな特徴をもつか。 私たちは、これをどう評価したらよいか。 早速それらの要点について見て行きたい。 天皇の元首化と国旗・国歌の尊重義務 まず目にとび込んでくるのは第一章第一条で天皇を「日本国の元首」であるとしていることだ。 これでは現日本国憲法が共和制を建前としているのに(そこに象徴天皇規定という怪しげなものがはりついているにせよ)、それを憲法上、君主制的国家体制へと変貌させることになってしまう。 戦後60年余年、曲がりなりにも基本的人権、平和と民主主義を享受してきた日本人民の立場からして到底容れられるものではない。 戦前は大日本帝国憲法のもと、天皇の名と命令によってあの侵略戦争が進められたことを、ひとは忘れはすまい。 自民案には軍隊に対する統帥権こそ規定されていないものの、これは或る意味での戦前回帰に他ならぬのである。 しかも、この改憲草案第一章第三条において、「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする」とされ、なお第三条2項においては、「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない」とされているのだ。 「尊重しなければならない」とは、端的に国民の義務規定と読める。 それは最近の「君が代」不起立問題に対して憲法的な決着をつけようとするものに他ならない。 「戦争放棄」から「安全保障」へ つぎに世界に誇るべき不戦・非武装・戦争放棄を明示した第二章の「戦争放棄」が、「安 全保障」と変えられ、その第九条では「自衛権の発動」を容認するのと一緒に第九条の二において「内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する」と明示しているのだ。 併せて、現日本国憲法が、その前文で「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」といって、その平和的生存権を宣言しているのを、取り去ってしまっているのである。 これが戦争放棄条項の扼殺と不可分であるのはいうまでもあるまい。 さらに右のようなところに呼応させる形で、第九章に「緊急事態」なるものをもってきて、内閣総理大臣の権限として「緊急事態宣言」なるものが認められているのである。 今日でも違憲の自衛隊が海外派兵をしているという状況を、質的にエスカレートさせようとしていると見られる。 しかも、東北大震災にさいしての救助活動などで、国民の間に自衛隊アレルギーが薄められている、まさにその時に出されてきた「国防軍」規定である。 自民改憲草案の狡猾さも、ここに極まるというべきであろう。 改訂のハードルを低く低く 日本国憲法第96条は、「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会がこれを発議」し、「特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票」において、その過半数の賛成を不可欠の必要要件として規定しているのだ。 つまり、改憲のハードルは、かなり高いといわねばならない。 しかるに、今次の自民改憲案では、まず改憲発議が、「両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成」でなされ、国民投票においても、その過半数の賛成によって承認されるとしているのである。 自民改憲草案では、かく改憲のハードルが、低く低く設定されているのである。 これによれば、保守多数党による改憲発議も割と簡単に行きかねない。 勿論、いかな自民改憲草案とて、「基本的人権」、「法の下の平等」、「信教の自由」などの規定がかき消されてしまってはいない。 その点、大日本帝国憲法とはちがっている。 しかし、これまでみてきた天皇元首化、国旗・国歌規定、安全保障と「国防軍」規定、「緊急事態」規定などなどが、要所要所にドカンと嵌め込まれているが故に、前者の規定がかすまされ、結局は、君主主権的国家主義、軍事的帝国主義に発動の余地を憲法的に保障していると見ない訳にはいかないのである。 現下の憲法情勢 注目しなければならぬのは、ここにきて右自民党改憲案に呼応するかのように、たちあがれ日本その他の一連の改憲案が明らかになってきたことである。 たとえば、「たちあがれ日本」(平沼赳夫代表)は4月25日、天皇元首化、自衛軍の保持をふくむ「自主憲法大綱案」を発表したし、「みんなの党」(渡辺喜美代表)は4月27日、一院制、首相公選制、道州制、自衛権のあり方の明確化などをふくむ憲法改正に関する「基本的考え方」を発表している。 これとは別に「大阪維新の会」の維新政治塾・レジュメ(3月10日)には、首相公選、参院廃止、9条改定の国民投票などがあげられていたという。 ж 私見では、自民党の「日本国憲法改正草案」が俄かに国会に上程されうるとは思わない。 いまただちにこれが国民的議論を呼ぶとも考えられない。 私は、これはむしろアドバルーンとして重視されるべきだと見る。 しかも、これに前後して小政党やグループの改憲提議が出され、それが一定の潮流になりうる危険をこそ重視しなければならぬと考える。 そして、この潮流は、人民的言論と人民的運動により何としても断ち切らねばならない。 こうした改憲潮流――そういう言葉を使うとして――に対して断乎たる護憲の潮流は勿論動いている。 社民党、共産党が護憲の立場を譲らないのは申すまでもない。 九条の会の全国的な動きや、地方的な動きも勿論見られる。 しかし、見られるといっても、私見では、どうも散見されるというに近い。 私が住む埼玉県久喜市にも「九条の会・久喜」という団体が数年前に発足、活動を継続している。 しかし、当面、細い糸のような継続であるように見える。 その証拠に活動が何人かの僅かな人によって代行され、右にみてきたような改憲潮流に対する危機感が余り認められないと見ざるをえない。 しかし、護憲の庶民的な拡がりには、やはり抜きがたいものがある。 それは庶民的憲法感情といってもいい。 戦後六十余年は、その点についても無駄に経過しはしなかった。 この拡がりを、全国的にも、地域的にも一本により合わせて、改憲潮流に、いまこそ断乎対決して行かねばならぬと思うのであるが、いかがであろうか。 (2012・6・1) 掲載誌 「月刊・人権と教育」458号 2012年6月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 458号 目次 ・自民党改憲草案と現下の憲法情勢 --今こそ「改憲潮流」への反撃を 津田道夫 ・教育問題ルポルタージュ --車いすの春樹くん、「宿泊学習」始末 --学校側の条件の容認か、権利の主張か、改めて親こそ子どもの権利代行者だ 山田英造 ・冤罪追跡レポート --「三鷹事件」の再審請求始まる その3 竹澤節子 ・声、こえ、声 ・自治体漂流 -- 原発自治体消滅(12) -- 差別を作る原発 布施哲也 ・高齢者施設レポート31 -- バカヤローばかりがとんででる -- 悪態だけがなぜ残る 佐藤与志子 ・自然を観る 77 -- 空の星 平林浩 ・車いすとトーキングエイドで生きる・4(会員・読者を訪ねて) --生活介助なしで生きていけるか -- つらかった高校時代 大江弘子 ・虫めがね -- 母子権 最首 悟 ・「顔なし」のアルバム 高坂 徹 ・小学校から高校mデを地域で -- 選択肢が拡がり、自己決定する力が育つ 北口昌弘 ・沖縄復帰40年 -- 沖縄米軍普天間基地問題は日本人の責任だ 宮永 潔 ・学校場からのレポート -- 存在をアピールする子どもたち 遠藤行博 ・今も継続する「原発震災」・10 -- 民衆はだまされない 2 --立法府も無視する野田内閣 サトウアトム ・夏期合宿 人権と教育ふぉーらむへのおさそい -- 今をどうとらえるか --障害者問題、沖縄、反原発 ・編集後記 ------------------------------------- #
by tomoni_kk
| 2012-06-18 19:33
| 憲法
米軍普天間基地の即時無条件撤去を!
―― 沖縄、戦後は終わっていない 十年程まえ、友人に案内され、第二次大戦末期、沖縄本島での最大激戦地とされた嘉数(かかじ)の丘から米軍普天間基地(宜野湾市)を眺めたことがある。 いまは嘉数高台公園となっているころからだ。 すると、同市のほぼ全体が眺望され、そのど真ん中に同基地はあった。 いい換えれば、普天間基地を中心にして、ドーナツ状に街区が認められた。 クルマを宜野湾市街にまわしてもらうと、文字通りフェンス一つで隔てられただけで、基地に密着するような形で民家や学校が犇めいているのだ。 余所者の私がそれを見ただけでゾッとさせられたことである。 「世界一危険な基地」とアメリカ筋も認めていた基地だが、二〇〇四年八月十三日には、米海兵隊のCH53D大型ヘリコプターが、隣接する沖縄国際大学の構内に墜落・炎上、校舎にも大きな被害を与えるという事件が惹起させられた。 幸い夏休み中のこととて学生がいなかったので、人が死ぬということはなかったものの、この墜落事故が二、三秒ズレていたら、それこそどんな惨事になっていたか測り知れない。 この事故は偶然のものではなく、偶然を通して必然が貫いたものと見ない訳にはいかないのだ。だが問題は、その先にあった。 事故直後、米海兵隊は大学のフェンスを乗り越え、現場周辺を制圧、大学関係者はもとより警察や消防の立ち入りも禁じてしまった。 そして現場検証を求める県警には回答も示さぬまま、機体残骸の撤去作業をすすめてしまったのである。 県警職員は遠巻きにビデオ撮影をするのみ、捜査一課の某幹部は「これが地位協定だ」と吐き捨てるように言ったという。 別の県警幹部は「屈辱ですよ。こうした非常識がアメリカの常識なのかと言いたい」とも。 同年八月十六日、当時の伊波洋一宜野湾市長が、謝罪のために市役所を訪れた在日米海兵隊の副司令官、ジェームス・フロック(准将)に「飛行再開は許されない。米軍は県民からさらに強い反発を受けるだろう」と抗議したのに対して、彼は逆に飛行・訓練の再開を告げた。 謝罪の場は開き直りの場に変わったのである。 沖縄は、まさに軍事占領下にあり、それを何ともできない日本は、対米軍事従属国に他ならぬことが、はしなくも暴露された(以上、月刊『人権と教育』369号、04年9月20日、参照)。 本土政府の沖縄政策 ―― 琉球処分から戦後へ 本土の日本政府が、沖縄をその帝国主義的政策の人身御供としてきた歴史は、古く一八七八年(明治12年)の琉球処分に遡る。 日本政府にとって沖縄は対アジア関係での軍事的要衝と位置づけられ、以後、沖縄の「本土化」がはかられ、沖縄固有の文化は破壊されてきた。 しかも太平洋戦争末期には、本土決戦のための捨石とされ、住民の四人に一人が死ぬという凄惨な状況が出来(しゅったい)させられた。 戦後は、アメリカの極東戦略の拠点として米日の帝国主義的共同の拠点とされてきた。 その端的な現われは、あの狭い沖縄に在日米軍の74%が集中しているのだ。 そこから米軍兵士による殺人、強姦にはおびただしいものが数えられる。 それを象徴するのが、一九九五年に惹起させられた三人の米兵による少学五年の少女にたいする暴行・致傷事件で、これらの継続が沖縄人民の米日帝国主義の共同に対する怒りを徐々に蓄積していったのである。 そこで話を普天間基地に戻す。 激戦の伝えられた宜野湾市域は、当時、宜野湾村といわれ、サトウキビ栽培を中心とした農村だった。 ところが戦火に追い立てられた人びとは当然、家と村を離れたのであったが、日本の敗戦により収容所から帰村した村人が見たのは、自分らの土地が整地されて、もう米軍飛行場ができていたことである。 そこにもってきて村は市街地化され、今日の宜野湾市=普天間飛行場のような状態が現出させられたという次第である。 そこの人びとが、日夜生命の危険におののいてきたのは、前記ヘリ墜落事件に見るとおり申すまでもない。 そこで、日米政府は普天間基地を名護市辺野古沿岸部を埋めたてて、ここに移すことを画策していた。 しかし、これは名護市住民、否、宜野湾市の住民もふくむ全沖縄住民の反対で頓挫を余儀なくされた。 問題は、(1)沖縄に駐留する海兵隊八千をどうするか、(2)普天間基地の代替案をどうするか、にしぼられてきた。 そして(1)についていえば、米軍がいくらか妥協して、海兵隊4700を、グアムに移転させ(もっとも移転にかかわる費用は日本が米国以上に負担するという)、残りをオーストラリアやフィリピンなどにローテーション派遣するという案がでてきた。 普天間基地の固定化を許すな このことじたいは、沖縄人民をはじめとする日本人民のたたかいの成果として限定的な評価はできる。 ただ米軍は、グアムに極東戦略全体の司令部的機能を負わせようとしているかに認められる点、手離しでの評価は慎しみたい。 問題は第(2)点、普天間飛行場をどこにもっていくかにある。 日本政府も、辺野古代替案は、どうやら当面無理と判断したようだ。 とすれば、海兵隊の多くがいなくなるのだから、普天間には当面ふれずにおこうという発想が出てこないか。 どうもそんな臭いがしてならない。 仲井眞沖縄県知事は、普天間基地の本土移転を主張している。 米日の帝国主義的共同の犠牲を強いられてきた沖縄の立場からすれば、その心情をしも理解できぬとはいわぬ。 しかし、日本人民の立場にたつ私たちの基本的要求は、普天間基地の即時無条件撤去以外にない。 だが、それは日米安保条約に抵触するといわれるかもしれない。 ならば日米安保の廃棄通告を一方的にすればよいのだ。 その法的可能性については日米安保そのもののなかに規定されているのだ。 いわく、その第十条には、こうある。 「……この条約が十年間効力を存続した後は、いずれかの締約国も、他方の締約国に対しこの条約を終了させる意思を通告することができ、その場合には、この条約は、そのような通告が行なわれた後一年で終了する」。 この通りにしたからといって、アメリカが怒って日本を攻めてくるなんてことは考えられない。 安保に替えて日米友好親善条約を結べばいいのである。 そう問題を提起する以外、普天間解決の道は無いように思われる。 かくすることは、日本国憲法前文が、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免がれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とした平和的生存権を具体化する由縁ともなり、さらにそれは、これと不可分の不戦・非武装・戦争放棄の憲法第九条の具体的実践でもなければならぬ。 ふり返ってみれば、一九五五年の経済白書は〝戦後は終わった〟というキャッチフレーズで登場させられた。 本当に戦後は終ったか。 太平洋戦争とてその終結、アメリカによる軍事占領という現実は、サンフランシスコ平和条約にもかかわらず今日は、揺曳しているのだ。 まして沖縄においておや。 この現実が変わらぬ限り、私には戦後は終わったなどとは考えられない。 もう一度いう。 沖縄人民を先頭とする日本人民は、普天間基地の無条件・即時返還を繰り返し要求していかねばならないのだ。 (2012・2・22)津田 道夫 掲載誌 「月刊・人権と教育」455号 2012年3月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 455号 目次 ・米軍普天間飛行場の即時無条件撤去を! --沖縄、戦後は終わっていない 津田道夫 ・就学問題ルポ 車いすのゆりなさん、学区小就学が確定! --校長、校内生活での配慮を約束(長野県茅野市) 山田英造 ・高齢者施設レポート29 -- わがままがぶつかる -- 耳の遠くなったお年寄りとのコミュニケーションは疲れる 佐藤与志子 ・会員・読者を訪ねて 怖くても立ち止まらずに -- 近所の子どもたちとともに育った息子 大江弘子 ・自然を観る 75 -- 地は動き続ける 8 平林浩 ・真っ暗闇の中の対話 その2 -- 対話(ダイアログ)を忘れるほどの緊張も -- 他のアテンドの対話する光景を見て 大林章子 ・虫めがね -- 自己責任を果たす 最首 悟 ・みちのく通信 --元「義勇軍の少年」たち 加藤民子 ・声、こえ、声 ・自治体漂流 -- 原発自治体消滅(9) -- 相馬と将門と放射能 布施哲也 ・今も継続する「原発震災」8 -- 4号機が壊れたらすぐ逃げろ! サトウアトム ・父として母として -- カルタ大会に出られず悔しがる積極性も -- こるまい巣の春樹くん、4月から5年生へ 新井史恵 ・学校場からのレポート -- いまだ定着しないインクルージョン 遠藤行博 ・障害の程度差を超えて楽しめる授業を 武井真人 ・編集後記 ------------------------------------- #
by tomoni_kk
| 2012-03-27 19:48
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