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津田 道夫
野本学兄、夏の合宿にはわざわざ参加下さり、ありがとう存じました。 また今度は月刊『人権と教育』418号に「知らない子の就学先を決めることの怖さ」という一文を投じて下さり、これも感謝しております。 学兄は、そこで「就学指導委員となって」の悩みを披露してくれていますね。 就学指導委員会はどんな権限をもつか つまり学兄は、こんな風に言っておられます。 (学兄は就学支援委員会という言葉を使っておられますが、私は旧来通りの就学指導委員会を用います)。 《その子をどこに就学させるか。通常学級か、特別支援学級か、養護学校かを審議する場が「就学支援委員会」です。 そして、この委員会の〝決定〟に基づいて、親御さんに「あなたのお子さんは養護学校で学ぶのが適切であると思われます」ということを伝えるわけです。 この〝決定〟に不服の場合は、委員会とたたかわざるをえなくなったりします。 我が子の就学にあたって、ここまでしなければならないのはまさに理不尽そのものです。 この委員会とはそれほどまでに権限をもっている権威のあるものなのでしょうか。》 そして学兄は、就学指導委員会のメンバーは、教育長、各学校から校長と特別支援担当者、見識者として数名、合わせて20人程度であること、会議の進め方は、各学校の担当教師から当該児童生徒の生活の様子や学習の様子が話され、それに対して、質問や意見がでて、最後にその子の就学先の決定となるといった事情を紹介してくれています。 しかも一人の子どもにかんする話し合いにかかる時間は5分ないし10分程度なんだそうですね。 そして、それぞれの子どもについて、何はできない、あれも不足しているという状況が強調され、「だから」ということで通常学級は無理、やはり養護学校行き以外にない、という方向に議論が流れて行かざるをえない現状を紹介し、とくに校長などは、「これではまわりの子どもに迷惑がかかる」「担任が大変な目にあっている」といい、“だから”養護学校以外にないという例を出して、これを「障害児の排除理論」であるとしておられます。 私見では、以上学兄の意見を二つに要約させてもらいましたが、ここにはやはり二つの問題がありそうです。 まず後者の「排除理論」のほうから考えて行きましょう。 「障害児の排除理論」の思想的基礎 学兄のいう「障害児の排除理論」には、一つの思想的基礎があると思われます。 それを私は〝管理としての教育観〟と呼びたいのです。 たしかに校長などの立場にある人は、学校職員、子どもたち全体の安全について管理責任を問われるものであり、その限り学校を代表する存在です。 そういうところから大部分の校長さん方には学校の安全管理が第一になるのです。 何か事が起こったりすると、出世の階段を馳せ登り、教育委員会の指導課長にでものしあがりたいという出世の筋道にも蹉跌をきたしかねないことになるからです。 ここに生まれるのが〝管理としての教育〟思想にほかなりません。 そこから面倒な子をあずかるのは御免蒙りたいという「障害児の排除理論」にも至りかねない訳です。 私たちが、これに対置しているのは、〝権利としての教育〟思想であり、親(本来的には本人)の希望を権利の問題としてとらえ返し、その希望にそくして、教育委員会(教育長)は学籍を措置し、必要な教育資源をもととのえなければならぬということになります。 そこから私たちの主張する〝親(本来的には本人)の学校選択権〟という考え方・正当な法理解釈もでてきます。 これについては何度も説明していますので、ここではこれ以上の説明は致しませんが、いまは学兄が紹介された就学指導委員会の現状から、その思想的問題点をクローズアップすることができたことをもって満足する以外にありません。 親は就学指導委員会とたたかうのか つぎに学兄の問題提起の前段について考えてみましょう。 学兄は、先に私が引用したところで「就学指導委員会」の〝決定〟に不服の場合は、「委員会とたたかわざるをえなくなります」と言っておられます。 この「委員会」とは、学兄の文脈からは「就学指導委員会」と読むほかありません。 しかし就学指導委員会の「決定」――そんな「決定」がもしあるとして――と、その「決定」変更のためにたたかうというのは、法理論的に言って間違いではないでしょうか。 結論を先に申せば、子どもの就学先決定についてたたかう相手は、「就学指導委員会」ではなく、教育委員会教育長以外にないというのが、実現する会の理論・政策から導き出されてくるところなのです。 勿論、学校教育課長(指導課長などともいわれる)とか、担当指導主事とかと、実際の話し合いが行なわれることはあるでしょう。 しかし、その場合にも〝あなたを教育長権限を代行するかたとして話し合います〟と、そう確認をとってから交渉にはいるべきなのです。 では、なぜ〝決定〟に不服の場合、就学指導委員会とたたかうというのではだめなのか。 実は就学指導委員会(就学支援委員会といいかえても同じ)などというものは、文科省の初等中等教育局長の通知(1978年と2002年)に、「適切な就学指導のための調査・審議機関を今後も設置することが重要である」という文言があり、これに根拠をおいているだけだからなのです。 ここで「だけ」というのは、この局長通知なるものは、都道府県知事や地方教育委員会にあてられただけのものであって、障害児の就学事務については、こうこうこんな風に行ないなさい、ということで行政内部の事務処理のマニュアルでしかないからです。 したがって、それは教育委員会の諮問機関でしかなく、子どもたちの就学先については、本来、何の〝決定〟権もないはずなのです。 それが権力機関みたいな顔をして罷り通っているのは、適応社会としての日本の庶民社会の権利意識の希薄さに便乗して、恰も行政行為の主体のような顔をして、障害児の親たちに立ち臨んで来ているからに他なりません。 つまり就学指導委員会設置の公文書上の根拠と、その実際行動の間には大きなズレがあるということです。 私たちは、そんなものによって子どもの就学先が〝決定〟されてたまるか、という立場に立っています。 併せていうならば就学指導委員会による教育相談は拒否して、就学先をご自分で判断して、その学籍措置を教育長にぶつけて行くべきだというのは、まさにこういう考えに由来しているのです。 つまり、行政の学校指定権優先の論理に対決して、親(本来的には本人)の学校選択権論の立場に立って就学・教育問題の解決を図って行こうという訳です。 憲法26条に保障された「教育を受ける権利」は、それが権利なるが故にこそ選択的でなければならないということです。 憲法を法源とするその下位法である学校教育法は、現に盲・聾・養護学校に関して、たとえば盲学校は盲児を教育する機関であるとの規定があるだけなのです。 盲児は盲学校に行かねばならぬとは書いてありません。 したがって盲児の普通学級選択の余地は、法律的にも保障されていることになります。 ところが実際の現場では、就学指導委員会の決定なるものが、あたかも親をしばるかのように受け止められる現実は、まだまだ各地で見かけられる訳で、そこに学兄の「疑問」も根拠をおいていたのではないでしょうか。 何か尻切れトンボになった感もあります。私が貴文を誤読して失敬した点があったのでは、とも懼れます。 学兄のまたの御意見をおまちしつつ筆をおきます。 08・10・29 掲載誌 「月刊・人権と教育」420号 2008年11月20日発刊
by tomoni_kk
| 2008-11-26 21:24
| 教育
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