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実現する会40周年、私たちはどう考え行動してきたか・2
大西氏による告訴・告発と、 それに連帯、法律を民衆のものにする運動 大西氏と私たちによる再三の抗議・説得にもかかわらず、浦高当局は赤人君の入学不当拒否について再判定会議も開かず、県教育局もこの行政違憲について浦高当局を指導することもしませんでした。 つまり、赤人君への不法な差別は継続していたわけです。 他方、事柄を理解した人びとにより、運動は実現する会の枠をこえて拡がってきて、梅根悟氏の適切な表現を借りれば、赤人君入学不当拒否事件は、いまや文字通り大西問題となってきていたのです。 第2回総会と、大西告訴・告発 そうしたなか創立総会から、ほぼ1年後の72年9月30日、実現する会第2回総会が開かれました。 その席上、大西氏は、現行選抜制や現行内申制を前提としてさえ、不合格にするのはおかしいし、この件については、たんに不当とか不正とかをこえて、刑法上の犯罪であるという見方を開陳、しかも、その犯罪が問題にされることもなく継続されていたのを理由に、当局(当局者連中)を、近々刑法25章「涜職ノ罪」のなかの公務員職権乱用罪で告訴するつもりであると表明したのです。 もちろん、損害賠償請求を中身とする民事訴訟・行政訴訟の権利を放棄するつもりはないが、この度は、火つけ、泥棒のたぐいと同様の犯罪として訴えたいと表明したのでした。 火つけ、泥棒については世の常識は、これは犯罪であると直ちに反応しうるのに、不当に障害者差別をした入試判定ついては、何も犯罪とまではいえないのではないかという風潮が一般的ななかにあって、いやそれ以上に悪質な犯罪事実であり、それを告訴するのは当然であるという一石を投じようとしたのだと思われます。 ここで一般人が公訴を請求する際の告訴と告発について説明しておきましょう。 告訴は、たとえば行政違憲により犯罪事実が明らかになったとき、被害者(ないしその親権者)が検察に対して公訴を請求するものであり、告発はそこに犯罪事実が認められたとき、第三者が公訴を請求することができるという性質のものです。 そして大西氏は、73年3月15日、71年春に起き、その後も継続していた大西君浦高入学不当拒否事件を刑法上の犯罪事実として浦和地方検察庁に告訴し、併せて71年春浦高で行われた不正(情実)入学許可の事実を指摘して、これを告発したのでした。 ここでは事柄を簡略化して前者についてのみ問題にしますが、ではその犯罪はどのような性質のものであったか。 刑法25章では「涜職ノ罪」が規定されておりますが、それは「公務員職権濫用」罪(刑法193条)と収賄・受託収賄罪(同197条)とから主になっており、大西氏が浦高当局・埼玉県教育局当事者を告訴したのは、いうまでもなく前者、公務員職権濫用罪についてでした。 前記実現する会第2回総会では、大西氏の意向表明を満場一致で支持するのと併せて、告訴がなされた直後、73年4月14日、総括集会「大西告訴とこれからの運動」(60名参加)を開き、大西告訴にたいする支持決議を満場一致で採択、その決議文は趣意書(一日も早く犯人らが処罰されることを求める内容)といっしょに浦和地検に提出されたのです。 それ以後、浦和地検に対する起訴要望署名活動も開始、8月27日、実現する会代表が浦和地検を訪れ、起訴要望署名の第一回集計分(約千名)を手渡したのでした(金吉次席検事)。 注目されるのは実現する会とは別に、「練馬障害児を持つ親の会」が大西告訴・告発に同調、同犯罪事実を浦和地検に告発したこと、浦和市教組、日本キリスト教主義学校組合連合関東ブロック教研集会も大西告訴を支持する決議をあげたことです。 さらに特筆さるべきは、浦高生有志が別に大西告訴を支持し、独自に起訴要望の署名活動にはいったこともあげられます(浦和高校社会科学研究会)。 実現する会としては73年7月21日、「法律をわたしたちのものに―大西告訴・告発をめぐって」(81名)、実現する会第3回総会(73年10月13日)を開き、同時に公訴の提起がおくれていることに再三にわたって抗議、みんなの間に法律知識を培うのといっしょに、法感情を陶冶していくようおおいにつとめた次第です。 不起訴決定とその後 浦和地検は、結論をおくれにおくらせていたのですが、74年1月7日、大西告訴・告発を不起訴とする旨、大西父子に告げました(翌日の各紙に記事掲載)。 そこでは埼玉県教委・教育局については「嫌疑なし」ということでしたが、浦高当局(柳瀬忠、小関一郎、高島朗)については「嫌疑不十分」ということでした。 いかな法律感情の欠落した浦和地検当局も「嫌疑なし」とはいいきれなかったのでしょう。 大西氏の質問にたいして担当検察官は、白ではないが黒でもない、いわば灰色である、と述べたといいます。 実現する会代表にたいしては、まだ民事賠償請求の道があると、しゃあしゃあと述べたことでした。 大西君入学不当拒否から3年近く閲していたというのにです。 このあとは事実経過のみ述べましょう。 大西氏は地検のこの不当な決定をうけて、74年1月11日、浦和地方裁判所にたいし、同一事案につき「準起訴手続」をとりました。 しかし、74年2月28日、浦和地裁は大西氏のこの「不審判請求」を棄却。 大西氏は、ただちに東京高裁に「抗告」を申し立て(3月5日)、しかし、東京高裁もこれを棄却してしまったのです。 さらに大西氏は最高裁に特別抗告をしましたが(74年3月27日)、ここでも棄却されてしまいました。 実現する会は、74年1月26日、4月20日と、総括集会をもちましたが、各級裁判官は、ほとんど証拠調べも行わなかった様子がうかがえます。 この間、74年1月8日、浦和地検の結論が出た翌日、浦高社会科学研究会は「大西問題、不起訴処分糾弾」という掲示を、校門前に出したのでした(月刊『人権と教育』22号一面写真参照)。 しかし、司直の当局に訴えたこの一連の動きは、最高裁の棄却決定により、「過渡的結着」(大西氏のことば)をみたといわざるをえません。 では、大西問題をめぐる運動は、何の成果もえられなかったということでしょうか。 赤人くん入学不当拒否の撤回はなされませんでしたが(もっとも三年もたって、浦高入学など赤人君には考えられもしなかったと思われますが)、私たちの間にさえあった憲法・法律知識にたいする無知をただし、市民運動のなかで法律を武器にたたかって行く意味が多くの会員の間で共有されるようになった点では、大きな意味をもったといえると、いまふり返ることができます。 現に前記72年2月5日の「大討論集会」では、浦和市の一教師が「私は教師になって25年になる。 ところでいまは受験期だが、校長が学校教育法施行規則26条のことや、障害者にたいする特別の配慮をするのを聞くのは初めてだ。ここに私たちの運動の波紋の一つを見ることができると思う」と発言していたなど、それを端的に示していたといえるでしょう。 権利実現の一つのたたかい―― 久喜の場合 法律闘争をふくむ権利のためのたたかいは、つぎに学齢にありながら未就学のまま放置されていた障害児(とくに知的障害児)に教育を受ける権利を回復させる久喜市の運動(74~75)に、一つはつながって行きました。 私が居住する久喜市内の小学校にはそれまで合わせて三つの特殊学級がありましたが、しかし、このどれも普通学級について行けないと役所側が「判別」した子(学力遅進児ないし、軽度の知的障害児)の「おちこぼれ」の場であって、いわゆる重度の、とくに知的障害児は学齢にたっしても、学校教育法23条の「就学義務の猶予免除」規定が不法に悪適用されて、教育、学校の場から全く締め出されていた実情にあったのです。 なかには、それを習慣として受け入れてしまっていた親御さんもあったかと思われます。 しかし、保護者が、その保護する子女の「教育を受ける権利」を代行しなければならないことを考えれば、行政によるこの「悪適用」は、やはり公務員職権濫用に他なりませんでした。 ここにおいて、私たちは、久喜市の2、3の親御さんと相談、「久喜市障害者問題を見まもる市民の会」をつくり、実現する会としてもこれに協力、市民の啓発と同時に、行政との話し合いもかさね、翌75年には、久喜市立本町小学校に重度の知的障害の子どももふくめて「ひまわり学級」と名を冠した障害児学級をつくらせることに成功したのです。 こうして久喜市の運動の結果、同市では養護学校の義務化による障害児全入制度の定着(79年)の前に、学籍のない障害児は基本的にいない状態をつくりだすことができました。 それも例の学校教育法23条の悪適用による障害児排除が、憲法26条「教育を受ける権利」、教育基本法3条「教育の機会均等」などを踏みにじった、公務員職権濫用に他ならぬことに気づきえた2、3の親のかたたちが、わが子の権利代行者として登場し、運動を展開したことによるといえます。 これは一例にすぎませんが、私たちはこの種の権利回復の運動へと連動して行ったということです。 また、72年の9月28日、埼玉県教育局は、県下の中学校長にたいして、障害生徒の評価についてはとくに注意するよう指示するということがありました。 この日付は実現する会第2回総会の前々日にあたっていて、私たちの総会を意識していたのではないか、という声も会員の間にありました。 さらに73年9月23日には、県立高校入学者選抜実施要項から、これまで入っていた障害者条項「入試選抜にあたっては心身に異状があり、就学に耐えられないと認める者は入学許可候補者としない」を削除することもやられたのです。 2011・1・27 津田 道夫 掲載誌 「月刊・人権と教育」445号 2011年3月20日発刊 -------------------------------------- 月刊 『人権と教育』 445号 目次 ・教委の行政慣習化、権利主張の問題か -- 車いすの佳典くん問題、その経過(埼玉県春日部市)ほか 山田英造 ・武なりのペースで成長させてやりたい -- 1年間、親の就学義務を猶予へ 浅野 肇 ・高齢者施設(認知症)レポート -- 何をおっしゃいますか 佐藤与志子 ・学校現場から -- 個人用生活カードで落ちついた生活に 遠藤行博 ・学校現場から -- 本来の席にいてほしくて -- 集団が苦手な子、理科授業での試み 高坂 徹 ・「海ゆかば」は鎮魂歌か 4 -- 丸木美術館と「海ゆかば」 吉川 守 ・自然を観る -- マツタケはどこへ その2 平林 浩 ・みちのく通信 -- 山形に弾道下の村があった -- 子どもたちに伝える童話を 加藤民子 ・声、こえ、コエ ・自治体漂流 -- 自虐趣味の国民に問う 布施哲也 ・世界史ウォッチ -- 中東の事態は「第2の東欧革命」だ 津田道夫 ・虫めがね -- 天然 最首 悟 ・本の紹介 -- 巌浩『歌文集 浪々』を読む 石川愛子 ・不戦・非武装憲法を世界へ -- 沖縄のたたかい、嘉手納基地爆音訴訟 宮永 潔 ・実現する会40周年、私たちはどう考え行動してきたか 2 --大西氏による告訴・告発とそれに連帯、法律を民衆のものにする運動 津田道夫 ・編集後記 --------------------------------------
by tomoni_kk
| 2011-03-20 23:15
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